ラングーン陥落 〜 ビルマ戦

 ビルマ独立の歴史。日本が大きく関わっていました。


 昭和17年(1942年)1月21日、東条英機首相
「日本のビルマ進軍の目的は全ビルマ国民を、搾取と抑圧から解放し、彼らの独立を支持することにある」(帝国議会にて声明)

 ビルマ独立を支援する日本軍の特務機関・南機関は開戦に先立ち、ビルマ人の機関員をビルマ領内に潜入させていたおかげで、ビルマ内の地下組織はしっかり組織化されており、B・I・A(ビルマ独立義勇軍)がビルマ領内に進軍してくると志願兵がすごい勢いで集まってきました。ビルマ住民は日本軍にたいしても軍資金、食糧、情報、労力など惜しみない提供が行われます。
 
 B・I・Aの平山部隊は日本軍のシッタン河渡河に呼応する形でラングーン(現・ヤンゴン)西南のデルタ地帯のピヤポン付近に上陸し、英軍背後で謀略活動を行います。3月5日の夜、「日本軍数千とビルマ独立義勇軍2千がデルタ地帯に敵前上陸、ラングーンを攻撃すべく準備中」というデマをラングーン市内に流します。英軍は唯一の退路を絶たれるおそれに相当精神的な打撃を与えたことは間違いなく、3月7日に英軍は戦わずしてラングーンを放棄し、3月9日にラングーンは陥落しました。この後、北伐が行われますが、ラングーン陥落により大勢は決しました。英首相チャーチル「ラングーンを失えばビルマ全土を失ったも同じ」。
 
 一方で大本営ビルマに軍政を敷くという宣言を出し、ビルマ人に不信感を与えます。日本政府の意見と大本営の意見が異なり、南機関と日本第15軍の意見が異なるわけです。
 3月末、鈴木機関長はB・I・Aビルマ人高級参謀・オンサン以下、ビルマ独立義勇軍を集め、開口一番こう言います。
「おまえたちはいつ独立するのか」

 オンサン以下、意表をついた質問にポカンとしていると、鈴木機関長は続けて、
「オレがビルマ人だったら日本軍と戦ってもやむをえないと思う。おまえたちはどうするのか」
「しかし、おれは日本人だ。こうはいうもののおれが先頭に立って日本軍と戦うわけにいかん。おまえたちが独立のためにどうしても日本軍と闘うというならば遠慮はいらぬ。まずおれを殺してから闘え」
 オンサンは「ボーモージョーがBIAにいるかぎり離反はしない」「北伐に参加する」と言い引き揚げました。

 5月末には北伐が終了し、ビルマ全土は英国から解放されました。

 タキン派指導者コドー・マイン
「私の人生で今日ほど幸せだったことはない。わが国土から英国が追放され、偉大なアジア民族が駆けつけて他のアジア民族を解放してくれた。われわれに古代の遺産と国土と自由、宗教、文化を取り戻してくれた。私は死ぬ前にこの幸せな日を見ることができた喜びに泣いた」

 共産党指導者タントン
「日本は間違いなく我々に独立を与えてくれる。これを否定する人間は敵方の宣伝を撒いている英国の間諜だ。我々の独立が完全に根付き、我々がそれを敵から守ることができるまで、日本人に留まってくれるよう頼むべきだ」

 翌年の昭和18年(1943年)8月1日、ビルマ独立宣言は行われ、新憲法が制定されました。



参考文献
 「ビルマ独立秘史」泉谷達郎著
 「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子著
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

添付画像
 1945年(昭和20年)ごろのラングーンの通り Author:Glenn S. Hensley

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