反対がほとんどだったインパール作戦


 インパール作戦は1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。 この背景にはチャンドラ・ボースら自由インド国民軍「インド解放」の動きも後押ししたようです。
 インパール作戦は動員兵力92,000のうち、戦死38,000、戦病40,000以上と大惨敗。補給線を軽視したな作戦といわれ、とにかく牟田口司令官の評判は悪い悪い。結果論でいうと昭和19年時点でやれば誰がやっても失敗だったものです。日露戦争の旅順戦のように将兵が多く戦死すると必要以上に悪く言われるものなのでしょうか。

 この作戦が認可される過程を追ってみますとほとんどの参謀が反対しています。それなのに作戦が認可されたのか実に不思議です。
 インパール作戦は昭和17年8月に南方軍参謀の林璋(はやしあきら)中佐が計画したもので、三十一号作戦といい、アッサムまで進攻するものでした。このとき15軍司令官は飯田祥二郎中将は18師団長だった牟田口廉也中将に意見を聞き、牟田口中将はこう述べています。

「一挙に東部インドまで突進しようとするこの案は、後方整備の関係、特に兵站道路の構築、補給体系の確立準備などの諸点からみて、あまりにも時間的余裕がなく、実現の見込みはないと思います」

 この三十一号作戦はインド工作の状況から無期延期となります。しかし、昭和18年3月のビルマ方面軍の再編成で、15軍司令官となった牟田口中将はインパール作戦を強硬に述べるようになり、15軍の参謀・小畑少将が反対すると更迭するという事件がおきています。当時の各首脳のインパール作戦の意見を簡単に表します。

 大本営参謀本部
  |  東條英機陸相「無理するな」
  |  竹田宮参謀「作戦成立の見込みなし」
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 南方軍司令部
  |  総参謀副長・稲田正純少将「絶対許さん!」
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 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「疑問だが、15軍に干渉過ぎるのもよくない」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「・・・作戦構想に修正が必要だが・・・」 <=温厚な人柄
  |  片倉参謀「作戦構想を修正しないととても無理!」
  |
 第15軍
   牟田口司令官「やるっきゃない」
   小畑参謀長「反対」 <=更迭される

 ところが猛反対だった稲田少将が昭和18年10月に突然転出となります。



 大本営参謀本部
  |  東條英機陸相「十分研究しろ」
  |  真田少将「やり方が違うだろ、ガ島をみればわかる」
  |
 南方軍司令部
  |  (後任)総参謀副長・綾部中将「うーん、できればやらせてやりたい・・・」<=心優しい軍人
  |  山田参謀「必勝の信念は牟田口中将一人。ダメ。中止したほうがよい」<=後で撤回
  |  今岡参謀「補給計画の適否より作戦上の見通し」
  |
 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「牟田口にやらせたい」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「危険性が高い。再考の余地ないか」 <=温厚な人柄
  |  
 第15軍
   牟田口司令官「今回の作戦こそ必勝の信念」<=一回やらせろ、独裁政権
   平井謀長「軍参謀は一切意見はいわないことになっている」 <=更迭されるのが怖い
   15師団山内中将「今、タイから異動してきたばかりでよくわからん」
   15師団岡田参謀「無理だろう」
   31師団佐藤中将「補給は間違いなくあるんだろうな」
   33師団柳田中将(やっとれん)


 このような形になって稲田少将の後任、綾部中将は参謀本部に上申し、真田少将が猛反対するのですが、参謀本部の杉山参謀総長が「寺内さん(南方軍総司令官)の初めて要望であり、たっての希望である。南方軍でできる範囲なら希望通りやらせてよいではないか」<=人情派

 このように人事異動などによりおかしな人情劇にながされてインパール作戦は決まってしまったようで、結果を知っている私など憤慨してしまいますが、思えば真珠湾攻撃も無謀といわれ大反対された中で認可された作戦でした。兵站が無いのはわかっていた話ですから、この作戦は最初の一撃の成否にかかっていたということでしょう。そしてその成否の状況に司令官がどういう判断を下したかというところがポイントではないかと思います。



参考文献
 「インパール作戦」土門周平著
 「歴史通」WiLL7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
参考サイト
 WikiPediaインパール作戦

添付画像
 牟田口廉也(PD)

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