ビルマ独立に命をかけた日本人たち


 先月、ネットニュースを眺めていると陸軍中野学校のことが出ており、例によって悪意に満ちた書き方になっていました。陸軍中野学校は諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校です。インド国民軍を結成させたマレー作戦のF機関、ビルマ独立に尽力した南機関ほか、インドネシア独立にも大きく寄与しており、こうした功績は日本の言論空間から抹殺されているでしょう。
 
 昭和12年から始まった支那事変が長期化してくると、米英は昭和15年よりビルマ・ルートを使ってビルマのラングーンからマンダレー、ラシオを経て雲南の山岳地帯を越え昆明に至る自動車道路で重慶政府を支援するようになります。そこで参謀本部は南方問題の研究を鈴木敬司大佐に命じ、鈴木大佐はビルマ・ルートが開通したビルマに着目し、ここに強力な謀略の拠点を築く構想を練ります。
 
 ビルマでは日露戦争で日本が勝利したとき、オッタマ僧正はを訪れ、日本を礼賛したのをきっかけに独立運動の機運が芽生え、青年仏教界が結成され、これが独立運動の母胎となりました。それから1920年学生ストライキ、1924年マンダレー騒擾(そうじょう)などが起こり、1930年には大規模な農民の騒擾がおこります。反英独立運動に指導的役割を果たしたのがタキン党と名乗る一派と、ラングーン大学を中心とする学生たちでした。英国は仕方なく、ビルマ統治法を制定し、ビルマをインドから分離し、ビルマ人で構成する内閣を組織することを許しましたが、権力は依然としてイギリス総督の手に握られていました。
 
 鈴木大佐は昭和14年(1939年)こうしたビルマに潜入します。そしてビルマの状況を把握し、既にビルマを脱出し支那へ向かおうとしていたオンサン(アウンサン・スーチー女史の父)、ラミヤンを追いかけ、日本につれてきました。そして昭和16年2月1日、ビルマ独立の援助と、ビルマ・ルート遮断を目的として鈴木大佐を機関長とした大本営直属の南機関(みなみきかん)が誕生します。陸軍からは中野学校出身の将校のほか、一般の将校、海軍からも要員を集め、ビルマ人のオンサン、ラミヤンのほか日本に留学していたビルマ人3名が参加します。そして将来独立の中核となるビルマ人士30名をビルマから海南島に脱出させ、軍事教育を施し、再びビルマへ戻し、ビルマ国内各所において武力による反英暴動を起こすことを計画しました。この海南島で軍事訓練を受けたビルマ人の中には若き日のネ・ウィン(後のビルマ首相)も含まれており、さすがに理解力があり、日本軍人の代わりに同志に教えたり、闘志も人一倍であり、頭角を表したといいます。
 
 海南島の訓練は厳しいものでした。志士のひとりは「ビルマがもし海南島から陸続きだったら、どんなに困難が待ち受けていようと逃げ帰っただろう」と述懐したそうです。訓練の厳しさだけでなく、習慣の違いもあり、ビルマでは親でも子供を殴らないとのことで、日本式のビンタにはビルマ人にとってショックもあり、不満でもあったようです。しかし、独立のためと不満をエネルギーに変えていきました。
 食事は日本食があわなかったので、ビルマ人が自主的に作るようになりました。日本側の教官や班長も一緒に食べます。ビルマでは英国人はビルマ人とどんなに親しくなっても一緒に食事したりしません。一緒に食事し、一緒に寝転がって喋るなどやっているうちに日本人とビルマ人の信頼関係は増していきます。そして事態は急変し、日本と英米との開戦となります。
 


参考文献
 「ビルマ独立秘史」泉谷達郎著
 「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子著
参考サイト
 WikiPedia陸軍中野学校

文中に出てくるニュース記事
 ゲリラ戦、住民監視担う 「中野」出身42人 活動実態明らかに
   http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163932-storytopic-1.html

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ビルマ(現ミャンマー)独立の父
 http://www.youtube.com/watch?v=ZpGwvCKc_-Q