アウンサンの裏切り 〜 ビルマ



 大東亜戦争終盤の昭和19年(1944年)8月、ビルマで抗日組織の秘密組織。反ファシスト人民自由連盟が結成されました。この頃、日本はインパール作戦で大失敗しています。日本の旗色が悪くなってきたらビルマの独立はどうなるかわかりません。ビルマ国防軍司令官のアウンサンは英国諜報部と接触し、日本が負けた場合は英に貸しを作っておくしかありませんでした。
 
 昭和20年(1945年)3月27日、日本軍はビルマ国軍から攻撃を受けます。このとき、アウンサン将軍は各部隊長に対し、元南機関員、指導部・顧問部で直接訓練・教育を受けた日本軍将校下士官の救命を指示し、戦争終結後に戦争捕虜として日本へ送還するよう通達しています。このとき南機関員でビルマ国軍に残っていた高橋中尉はアウンサン将軍の計らいで身柄を保護され、戦後インドより捕虜交換船で帰国しています。このとき、日本への義理をたてたビルマ独立30志士のひとりミンオンは自害しました。
 
 アウンサンはこのときの心境をバー・モー首相に書き送っています。(バー・モー遺族保管)
「私には日本人を責める気持ちはありません。戦略的な見地に立ってみれば、解って頂けると思いますが、(中略)究極の勝利をおさめるのは我々の大義であるという確信があります。戦争があろうとなかろうと、平和であろうとなかろうと、我々の国の独立を求める戦いは勝利するまで続けなければなりません。私は最善をつくします。あなたには今は理解しかねるかもしれません。でも信じてください。しばらくすれば私の真意がどこにあったか、判っていただけるでしょう」

 バー・モー首相は日本に亡命します。終戦後、アウンサンはタキン党のバ・セイン、英国に拘束されていたウー・ソーとで連立内閣を発足させ、英国へ乗り込み独立交渉を行います。英国は往生際悪くビルマ憲法は英国議会の承認が必要などなど条件を出します。ウー・ソーとバ・セインは怒って席を蹴って帰国しますが、アウンサンは粘り強く交渉し、条件付ながら英国から正式に独立を勝ち取りました。
 
 ウー・ソーは以前、狙撃されたことがあり、アウンサンを疑っていました。英国がアウンサンを重要視し、アウンサンの人気が気に入らなかったので、英軍大佐ビビアンが武器と車を手配し、1947年7月19日、アウンサンの主催する閣僚会議の場に4人のビルマ人青年を乱入させ、英軍の短機関銃でアウンサン首相をはじめとする6人の閣僚を射殺しました。アウンサンは波乱の生涯を閉じます。ウー・ソーは暗殺の首魁として逮捕され、死刑となります。
 アウンサン死後の約1年後、1948年8月1日、ビルマの独立は正式に承認・発効され、建国の父としてアウンサンは現在に至るまで、ビルマ国民の崇敬を集め、アウンサン廟に祀られています。



参考文献
 「ビルマ独立秘史」泉谷達郎著
 「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子著
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 「歴史通3月号」『白い人が仕掛けた黒い罠高山正之

添付写真
 アウンサン像
 Statue of Aung San

  Author: Auchwaswisser
  Date: 31. Oct. 2006
  Notes: Statue of Aung San on Natmauk Road on the northern shore of Kandawgyi Lake in Yangon
  Source: Photo taken by Auchwaswisser

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