ビルマ独立義勇軍



 昭和16年(1941年)12月8日、日米が開戦。ビルマ国内各所において武力による反英暴動を起こすことを計画していた南機関は予定を変更し、タイのバンコクビルマ独立義勇軍(B・I・A)を編成。200名のビルマ人志願兵が加わります。司令官の鈴木大佐は南大将となり「ボーモージョー」と名乗ります。これは「雷将軍」という意味で、ビルマ伝説の英雄の名前でした。ビルマが危急存亡の折には、昔の王家の血統をひく王子が白い馬に乗って東からやってきて救ってくれる伝説があり、B・I・Aがビルマに進攻したとき、この伝説の通り、鈴木大佐は白馬に乗り、進軍しました。これは功を奏し、ボーモージョーの父を知っているというビルマ人まで現れて鈴木大佐は面食らったといいます。
 
12月31日、水上軍の平山部隊がバンコクを出発。
鈴木司令官
「状況はすこぶる可なり。指導者の資格も十分なり。いまやビルマ独立の絶好の機会至れり。奮起せよ。敵は弱し」

高級参謀オンサン
「日本人は戦闘にあたりては真っ先にたって討ち死にする。われらこれに遅れるべからず。遅れればわれらの恥なり」

 この後、1月5日、B・I・Aの主力はバンコクを出発。このときバンコクでB・I・Aを目撃した日本の従軍記者の話です。


「おや変なものがきたぜ」
と誰かが叫んだ。われわれは一斉に窓の外を眺める、なるほど不思議なものがやってきた。それはどこの人間なのであろうか。種々雑多な服装をした − 銃を持っているものもあれば、剣だけのものもあり、帽子をかぶっている者もあれば、かぶらぬ者もあり、・・・

「ありゃいったい何者だ」

とぼくたちは互いに顔を見合わせたが、事情を知っているらしい西良中尉は、

「あれはビルマ人で、この一隊はビルマ独立義勇軍です」

と説明してくれた。
(中略)

(あのなっていない装備で、しかも少人数で何ができるものか)
とすこぶる頼りなく思ったが、しかしすぐ、
(いや、そうじゃない。装備はどうであろうと、たとえ、いかにいまは少なくとも祖国の急に敢然武器を執って立ち上がった彼らの情熱は限りなく尊いものだ。その情熱がきっとそのうち大きな役割を演じるであろう)
と考え直した。そして故国を追われ、いま国境を越えて再び祖国に向かう彼らの心のうちを想像すると、なんとなく涙ぐましい気がするのであった。

 ビルマに入ったB・I・Aはビルマ人から「ドバマ、(独立) ドバマ」と熱烈歓迎を受け、ビルマ人の青年たちは軍事物資の運搬を手伝い、義勇兵に加わるものが増えていきました。この熱狂にB・I・Aの日本人メンバーは感激し、涙がとめどなく流れ、止めることはできなかったといいます。
 「ビルマ独立秘史」著者、泉谷達郎氏はB・I・Aのメンバーでしたが、著書を読んでいると、もうこのころ、日本人メンバーはビルマ独立しか頭になかったような印象を受けます。日本の目的はビルマ・ルートの遮断なのですが・・・マレーの元上院議員ノンティック氏がこの頃の日本人を「アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた・・・」と述べています。本当にそうだったのでしょう。

 戦後の昭和56年(1981年)、ビルマ政府は独立に関与した鈴木大佐をはじめ7人の日本人にビルマ最高の栄誉「オン・サン賞」を授与し、最高の敬意を表しています。



参考文献
 「ビルマ独立秘史」泉谷達郎著
 「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子著
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 
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大東亜戦争 ビルマ独立と日本との関係
http://www.youtube.com/watch?v=vZFaIo8uEEc