牛島中将とビルマ人士官候補生



 牛島満中将というと沖縄戦の防衛軍司令官として知られていますが、牛島中将は支那戦線で猛将の名をとどろかせ、沖縄戦に出向くまで陸軍予科士官学校校長、陸軍戸山学校校長(兼任)、陸軍公主嶺学校校長(満州)、そして昭和17年(1942年)8月8日陸軍士官学校校長をつとめています。本人も「私の性格にあっていると思います」と述べていますから、戦場では「チェスト、行け!」の猛将も本当のところは穏やかな平和を愛する人だったということでしょう。
 平和を愛するといっても国家の命運をかけた大東亜戦争という現実がありますから、牛島中将はできるだけ実戦に沿った教育方針をかかげ、指導します。そんなとき、ビルマから30名の幹部候補見習士官として陸軍士官学校に入学してきました。昭和18年8月1日のことです。この日は偶然にもビルマが独立した日となりました。
 ビルマ人留学生は時をおかず続けられ、第一回の留学生は57期に編入されています。57期には朴正煕(パク・チョンヒ 高木正雄)、後の韓国大統領の名前も見られます。終戦のとき、ビルマ人留学生は東部軍司令官杉山元帥の配慮で箱根の旅館に移され、後日連合軍によってビルマへ送還されたといいます。帰国した留学生は昭和24年(1949年)の動乱時、ネ・ウィン将軍の下で目覚しい活躍をし、革命政権樹立に際しては主要な幹部として同将軍を補佐しました。現在、民主化運動を行っているティン・ウー氏は第一回の卒業生で、過去は国防大臣として人望を集めていました。
 
 戦後の昭和49年(1974年)、ビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)で「沖縄の戦い」という日本映画が上映されたとき、ビルマ政府発行の「ワーキング・ピープル・デーリー」に「我々の知っている沖縄の英雄」という大きな見出しがおどり、牛島中将の写真まで添えて一通の投稿記事が載ったといいます。ボーム・タイメンという人の投稿で士官候補生として来日した人の一人でした。彼は、入学した日、牛島中将が校長として「大変あたたかい歓迎の辞を述べられた」ことに対して「我々を自分の息子のように愛情を持って取り扱われた態度に深い感銘を受け、そして感激した」ことから書き起こしていました。さらにいくつかのエピソードを交えて「祖国に帰ったら、必要あらば命を犠牲にしても諸君の国民と諸君の軍隊に奉仕してもらいたい」と「感動的な別れの言葉」は「今でも忘れられない」と感慨深く記していました。

 ビルマでは戦後も日本人の”こころ”が脈々と生き続けたのですね。反対に日本国内ではすべて捻じ曲げられ日本人のこころは”悪意”とされ、「贖罪意識」を植え付けられて現在に至っています。



参考文献
 「ビルマ独立秘史」泉谷達郎著
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 「沖縄に死す」小松茂朗
参考サイト 
 WikiPedia陸軍士官学校 (日本)」「陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)」「牛島満


添付画像
 陸軍士官学校(明治42年) 国立国会図書館より http://www.ndl.go.jp/scenery/data/56/index.html
 
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