インパール作戦は無謀だったのか


 インパール作戦は補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦とよく言われます。しかし、作戦そのものはアラカン山脈を越えて奇襲攻撃をかけるもので、この一撃の成否であり、それまでの補給が間に合えばよい話です。
 33師団は自動車輸送が期待できましたが、31師団と15師団はアラカン山脈の険しい地帯を越えていくため後方からの補給は期待薄です。そこで食糧は携行し、牛や羊を大量に連れていくことになります。ジンギスカン作戦といわれる所以です。家畜は途中で四散、脱落したりしていますが、現地人を使って訓練していた部隊は四散させることなく活動していたようです。
 31師団の主計将校の記録によると携行食糧は20日分で一人最低50キロになったといいますから、これは大変。このほか食糧は現地人と交渉して徴発を行っています。また、英軍が放棄した陣地の倉庫から食糧を得ています。これも作戦の範疇ですが、こういった他力本願のような予定がたたないことが作戦として認められるかというと前例がないことなので批判はあるでしょう。実際には31師団では3月15日の進撃から5月末まではなんとか食糧を調達できています。

 昭和19年3月にインパール作戦が開始される前の年の暮れ12月にインパール作戦の兵棋演習が行われています。兵棋演習は状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究です。このとき、南方軍司令部の今岡高級参謀がこのようなことを言っています。

「軍司令官(牟田口中将)が主張されているように、一ヶ月以内にインパールが攻略できるということであれば、今、軍が考えている補給計画で、その後の補給はなんとか追随できると思う。しかし作戦そのものが途中で頓挫すれば話は別である。突進戦法が失敗すれば補給は続かないし、軍の補給計画は全面的に崩れる。
 要するに問題は補給計画の適否というよりも、軍司令官の言われるように、迂回、突進戦法で敵が崩壊するかどうかの作戦上の見通しにかかっていると考える」

 つまり、補給計画の適否より、一撃の成否だといっています。牟田口中将は英軍はマレー攻略のときのように弱いと思っていました。しかし、インパール作戦のときには英軍は米からM3,M4などの戦車や最新の自動小銃を備えており、航空機もふんだんに利用できるようになっていました。山越えのため軽装の日本軍は歯が立たなかったのです。このあたりの敵状の情報収集不足が問題だったのではないかと思います。

 そしてコヒマ、インパールにおいて一撃がうまくいかなかったときの対応が問題でしょう。牟田口司令官はも3月作戦開始で天長節(4月29日)にはインパールを陥落させるとしていましたから、作戦の性質上、戦線が膠着すれば遅くとも5月中旬には作戦を中止しなければならないでしょう。しかし、方面軍司令官の河辺中将が視察にきたのは6月に入ってからで、6月6日に牟田口中将と河辺中将が懇談しています。

牟田口中将回想
「私は『もはやインパール作戦は断念すべき時期である』と咽喉まででかかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」

河辺中将の日記
「牟田口軍司令官の面上には、なお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」

 なんということでしょう。将兵の命を預かる軍司令官が「察してくれ」などとは。ビルマ方面の命運を握る方面司令官が前線を視察しておいて、戦況に望みがないと感じておきながら、軍司令官が「言わなかったから」として先送りしてしまうとは。

 インパール作戦はこの後、1ヶ月にわたって悲惨な戦闘が続き、そして悲惨な退却となりました。

 一応、両将の名誉のために書いておくと、英ディマプール方面33軍団司令官スタッフォード将軍はインパール作戦を好評価しています。




参考文献
 「インパール作戦」土門周平著
 「真実のインパール」平久保正男著
 「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームズ・B・ウッド著 茂木弘道

添付画像
 1944年4月のビルマの戦いの状況
  1944年4月の状況。DEMIS World Map Serverの地理データをもとにCave cattum氏が制作
  インパール作戦は黒の33D、15D、31Dが日本の第15軍

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