ビシェンプール攻防 〜 インパール作戦

 昭和19年(1944年)5月、インパール作戦の日本軍第33師団インパール南のビシェンプールを攻撃します。この地を攻略しなければインパールへは到達できません。

「この突撃ならざれば、原隊に見ゆる(まみゆる)ことなかれ」

 突撃大隊は何度か市街に突入しますが、一人も帰ってきません。

 歩兵第214連隊第一大隊長・斉藤満少佐は、5月24日夜、兵380名を率いて、ビシェンプールの北端しから敵陣へ突入。千余名の敵を倒し、360名が戦死。残った20名は28日に敵陣突入し、全員戦死。第九中隊の47名が敵後方に挺身し、敵砲兵陣地を急襲、戦車4両、トラック6両を破壊、敵の宿舎を奇襲します。ビシェンプールのこのような大激戦は70日にわたり展開されます。6月30日の師団の損耗は戦死傷者約7,000、戦病約5,000、計12,000。第33師団の70パーセントにのぼりました。

 第33師団がもっともインパールに近づいたところはレッド・ヒルというところで214連隊はほぼ全滅しています。その霊を弔うために地元ロトパチン村人が慰霊塔を建てました。村人は戦いの中で傷ついた日本兵に食べ物を届けてくれたといいます。私たちのために戦ってくれた、と。

ロトパチン村の村長
日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです」

 第31師団が奮戦したコヒマでは、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。日本兵がここを去って行った後に、いっせいに咲き出したといいます。花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵の姿に重ね合わして名付けられたと言われています。コヒマの人々は日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しているそうです。



参考文献
 「インパール作戦」土門周平著
 「歴史通」WiLL7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
参考サイト
 教科書が教えない歴史 アジアにおける日本と大東亜戦争インド編
   http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_5.html

添付写真
 タム付近で英軍の砲火をうける日本軍 33師団(山本支隊)と思われる(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。