原爆投下後のヒロシマの声

『兵隊さん、きっとこの仇を取ってください。』これがヒロシマの声でした。


 昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。

賀茂海軍衛生学校練習生隊 西家明男
「治療を受けに集った負傷者を混雑しないように縦列にならばせたが、重傷者は優先的に治療班にまわした。治療班が人手不足になると、交替で治療班にも加わった。(中略)八日は一、〇〇〇人近く、九日は一、八〇〇人くらい負傷者が列をつくったが、大半が女性で、顔面火傷の人がもっとも多かった。目から何か汁の出ている人もあり、治癒しても二度と見られない顔となったであろう。腕の火傷も多かったが、素肌の部分がひどく、着衣の部分は比較的に軽傷であった。(中略)長蛇の列の負傷者に対して、「少しの辛棒ですから待ってください。」と、われわれは励まし、元気をつけるようにつとめたが、無差別に虐殺したアメリカに対する憎しみと怒りの声は激しく、『何時かは、きっとこの復讐はしてやりますぞ。』とか、『兵隊さん、きっとこの仇を取ってください。』などと女も子供も興奮し、敵愾心に満ちて叫ぶのも当然のことに思われた。中には、爆弾の威力に驚愕し、『これで戦争に勝てるのだろうか。』と、不安そうにいう人もあった。『クソッ! アメリカの奴、おぼえておけ。』と、なかばやけっぱちの人、また、『アメリカは無茶をしますのう。』と、憎いがどうにもならんといったような、複雑な表情で話しかける人、『こんなことをされて、一生忘れァせんぞ。』と、負けても忘れないという意味にもとれる言葉など、内心勝利をあきらめたような言葉もあった」

 くそ、アメリカめ!これが当時の広島の声でした。

告諭 昭和二十年八月七日 広島県知事
「今次の災害は惨悪極まる空襲により吾国民戦意の破砕を図らんとする敵の謀略に基くものなり、広島県民諸君よ、被害は大なりと雖も(いえども)之戦争の常なり、断じて怯むことなく、救護復旧の措置は既に着々と講ぜられつつあり、軍も亦絶大の援助を提供せられつつあり、速に各職場に復帰せよ、戦争は一日も休止することなし。
 一般県民諸君も亦暖かき戦友愛を以て罹災諸君を労り之を鼓舞激励し其の速かなる戦列復帰を図られたし。
 今次災害に際し不幸にも相当数の戦災死者を出せり、衷心より哀悼の意を表し、その冥福を祈ると共に其の仇敵に酬ゆる道は断乎驕敵を撃砕するにあるを銘記せよ、吾等はあくまでも最後の戦勝を信じ凡ゆる難苦を克服して大皇戦に挺身せむ」

 広島の声を県知事が代表して述べているといえるでしょう。
 
 安沢松夫 (当時・小付第一二飛行師団司令部参謀部付飛行班)
「広島の救援を進言し、十二時三十分、神尾准尉と共に各種救援物資を積み、輸送機(一〇人乗一式双発機)で出発、午後一時過ぎ吉島に着いた。物資を降すと、参謀達を兵庫県加古川に送ることになり、二時過ぎに離陸した。上空からみる市街は、すでに七〇%火に包まれていた。加古川では着陸してもエンジンを止めず、すぐに広島に引返した。炎上中の広島上空で徐々に高度を下げる時、引火するのではないかと思われた。僅かに着陸できる幅員を残して避難者が溢れる飛行場に接地したが、まさに生地獄のまっただ中に降り立ったのであった。この仇を打つまでは決して負けないぞと、青年将校の私は歯をくいしばった」

 一般市民が残虐非道な殺され方をしたのですから、軍人としては「仇を打つまでは決して負けないぞ」という気持ちになるでしょう。

 8月15日、敗戦。広島逓信病院院長 蜂谷道彦
「日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭ききっていた者も、すべて被爆この方われ豹変して徹底抗戦論者になっている。そこへ降伏ときたのだからおさまるはずはない。すべてを失い裸一貫。これ以上なくなることはない。破れかぶれだ。私も彼らのいうように徹底的に戦ってしかる後に一死をもって君国に殉ずるのが私の本分であると思った。私はさらに思った。疵(きず)だらけの見苦しい姿で生きながらえるよりは殉国の華として散る方がましだ。有終の美をなすことを忘れてはならぬと心ひそかに自分で自分にいいきかせた。降伏の一語は全市壊滅の大打撃より遥かに大きなショックであった。考えれば考えるほど情けない」

 日ごろの平和論者でも徹底抗戦論者となっているのですから、当時のヒロシマの思いが伝わってきます。おそらくこういう話は広島ではタブーになっていると思います。広島で生まれ育った私自身、聞いた覚えがありません。
 多くの被爆者はこうした思いを残して死んでいきました。しかしながらなんでしょう。原爆死没者慰霊碑の石室前面には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と書いてあります。これには「自業自得」という意味が含まれています。「過ちは繰り返させませんから」が本来の言葉です。これで原爆で死んだ人が浮かばれるのか?どうして広島人は自虐に陥ってしまったのか。どうやらGHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの影響のようです。

 昭和23年(1948年)GHQ民間情報教育局(CI&E)の文書
「今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍の行った残虐行為について自覚させるべきだという提案が、非公式にCI&Eに対してなされている。なかんずく、”マニラの掠奪”のごとき日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきであり、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきであるという示唆が行われている」
「基本方針・・・東條裁判と広島・長崎への”残虐行為”はいずれも”ウォー・ギルト”のうちに分類されてしかるべきものだという点については大方の見解が一致している」

「新聞出版班は1948年(昭和23年)4月に予定されている広島での原爆の碑献呈式に代表を派遣し、日本の新聞関係者がこの行事を正しく解釈するように指導する

 原爆投下は日本のウォー・ギルト(戦争犯罪)が原因であると解釈させるためマスコミを指導したということです。検閲によって原爆批判が封じられただけでなく、捏造の事実をベースに言論統制、宣伝によって広島人は自虐へ向かうよう洗脳されていったのです。



参考文献
 「広島原爆戦災誌」広島平和記念資料館(編纂)
 幻冬舎昭和天皇論」小林よしのり(著)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)
添付画像
 日本赤十字病院にて。文部省の原爆災害調査団の記録映画班における記録写真。昭和20年10月(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。


原爆被災記録映画(病院・救護所のようす)
http://www.youtube.com/watch?v=8Fl_Pj9Bt20