湯川秀樹と原子爆弾

湯川秀樹は語らなかった。


 湯川秀樹と言えば、昭和24年(1949年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した理論物理学者です。大東亜戦争敗戦間もなくの頃、ノーベル賞受賞は日本国民を勇気づけた、と学校で習った記憶があります。

 大東亜戦争当時、ユダヤ研究機関「国際政経学会」の監事をしていた渡部悌治氏(著書「ユダヤは日本に何をしたか」より)
「戦争中、日本で一日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱一つの大きさで戦艦一つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日でいう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。
 しかし、その基礎理論が完結を見ないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に漏らしてはならぬという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。米国のためになったということで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である」

 実は日本でも原子爆弾の研究開発が進められており、海軍は京大の荒勝研究室、陸軍は理化学研究所仁科芳雄博士)に依頼していました。湯川秀樹は京大の研究でも理論面で協力していました。しかし、予算はアメリカのマンハッタン計画に比べると微々たるもので、この研究を知り、原子爆弾の危険性を知った昭和天皇が「人類滅亡の原因が我ら大和民族であってはならない」と研究の禁止を通告していました。そして最終的には終戦を待たずに研究禁止となっています。

 この湯川秀樹の闇にジャーナリストの鬼塚英昭氏が迫っています。以下、京大の冶金教室の学生だった永田泰次さんの証言。
「原爆が投下される3ヶ月前の1945年5月のある日、冶金(やきん)教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作をしていた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第一回現地テストを広島で行う予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいとういことでした」

「先生に呼び出された時、先生の横に原子物理の湯川秀樹教授が座っておられた

 アメリカでは広島・長崎原爆投下の半年前に「原爆使用反対」の声が一部の科学者より出ており、その中心になったのがシカゴ大学の冶金研究所のアーサー・コンプトン所長でした。シカゴ大学と京大の両冶金研究はスイスあたりを経由して情報交換したという可能性があるというのです。そして湯川秀樹はアーサー・コンプトン所長と親しく、戦前の昭和14年(1939年)、シカゴに訪ねています。鬼塚英昭氏は湯川の理論面での原爆研究データがシカゴ大学のコンプトン博士に何らかのルートで流れ、その見返りとして、広島に原爆を落とすというアメリカの極秘情報がコンプトン博士から伝わったと推理しています。

 このほか、鬼塚英昭氏は広島の高師付属中学校の科学学級というのは湯川秀樹の進言により設けられたもので、勤労動員をうけることなく、疎開して被爆から逃れることができている、という点を指摘しています。また、本来、ノーベル賞仁科芳雄博士と二人で受賞するべきだったものが湯川秀樹一人になっていることも挙げています。

 いずれも証言証拠、状況証拠であり、まだ内容が弱い。確実なことはいえません。戦後、湯川秀樹原子爆弾の研究開発に関わったことについては黙し、核兵器廃絶を訴える平和運動に積極的に携わりました。核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言に共同宣言者として名前を連ねています。

 広島平和公園にある若葉の像の台座。湯川による短歌での銘文
「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」 (「まがつび」とは、災害凶事を起こす神)

 この言葉は懺悔なのか、欺瞞なのか、それとも湯川博士売国行為とは無関係で純粋な心からでたものか・・・



参考文献
 成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
 成甲書房「天皇は知っていた 原爆の秘密」鬼塚英昭(著)
参考サイト
 WikiPedia湯川秀樹」「日本の原子爆弾開発」
添付画像
 湯川秀樹(昭和24年 PD)

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核爆弾が炸裂した瞬間
http://www.youtube.com/watch?v=llXNviPq3ns