原爆投下の序曲

迫り来る8月6日。


 昭和20年(1945年)、5月28日、アメリカ大統領トルーマンのもとにモスクワに派遣していた腹心ホプキンスより報告が入ります。

「8月8日にはソ連軍は満州の防衛線にたいして間違いなく攻撃を開始します」

 トルーマンマンハッタン計画に参加したバーンズ国務長官は”ほっ”としたでしょう。ソ連が参戦したら日本が降伏してしまいます。原爆投下の準備が整うのが8月1日となっていましたから、それなら間に合うと思ったでしょう。6月には投下目標は「広島」に決定しました。

 7月17日、ベルリン郊外のポツダムで、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国の首脳が集まりました。ここで、トルーマンスターリンからソ連の参戦が8月中旬になることを知ります。十分時間に余裕ができました。

 7月26日、日本に降伏を促すポツダム宣言が発せられます。原子爆弾投下の命令はその前日に下されていました。日本がポツダム宣言を受け入れないように国体保全の条項は削り、外交文書と読み取られないよう工夫し、スイス政府、スウェーデン政府を通して日本政府に伝達させることもしませんでした。

 そのころ、広島に来襲したコンソリデーテッドB24四機のうち、一機が佐伯郡八幡村の山中に墜落し、二人の搭乗員がパラシュートで脱出しました。歩兵第一補充隊(二部隊)から約20人の武装兵がトラックで降下現場に駆けつけ、警防団に捕えられていた二人を、その日の夕方、同隊に連れて帰りました。米兵は何かおびえており、「おそろしい、おそろしい」と言う。通訳の見習士官が、「捕虜になったから恐ろしいのか?」とたずねると、「いや、ここにいたら死ぬるのだ。近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される。ここにいては死ぬる」と答えました。

 8月2日、グアム島の米軍第20航空軍司令部から、テニアン島の第509混成部隊に極秘野戦命令が通達されました。

作戦命令書13号 1945年8月2日

1. 攻撃日 8月6日
2. 攻撃目標 広島中心部と工業地域
3. 予備第2目標 小倉造兵廠および同市中心部
4. 予備第3目標 長崎市中心部
5. 特別指令 目視投下に限ること

 8月3日、ニューデリー(インド)放送
「こちらはニューディリー、ニューティリーでございます。信ずべき情報によりますと、米軍は来る8月6日、原子爆弾投下第一号として広島を計画した模様です。原子爆弾とは原子核が破裂するものであって、核の破裂にともない高熱を発し、すべてのものは焼き払われることでしょう。繰り返し申し上げます」

 織井青吾少年(当時14歳)は陸軍通信隊の兵士から話かけられました。
「米軍の情報によるとね、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから、非戦闘員、つまり坊やとか女子供、年寄りの人たちは、今夜から郊外に避難せよと通告している・・・それを知らせてあげようと思ってね・・・」

 広島通信局に勤務していた無線技師、宮本広三さんは放送内容の検閲を行っていましたが、8月1日、サイパンからの放送で「8月5日、特殊爆弾で広島を攻撃するから非戦闘員は避難しなさい」という内容で繰り返し放送されていたのを聞きます。宮本さんは上司に報告しました。「敵性情報を聞くとは何事だ」と怒鳴られました。8月6日朝、その上司は宮本さんを呼び「何も起こらなかったじゃないか」というので、宮本さんは「間違いなく聞いたのです」と反論しました。その直後、原爆が炸裂しました。(5日はアメリカ時間であり日本時間では6日)



参考文献
 草思社「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(著)
 幻冬舎昭和天皇論」小林よしのり(著)
 成甲書房「昭和天皇は知っていた 原爆の秘密」鬼塚英昭(著)
 「広島原爆戦災誌」広島平和記念資料館(編纂)
参考サイト
 WikiPedia広島市への原子爆弾投下」

添付画像
 広島に落とされた原子爆弾リトルボーイ(PD)

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広島・長崎の原爆―アメリカ製作フィルム 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=hMRILEOmjr4


広島・長崎の原爆―アメリカ製作フィルム 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=Ye2pLeoYW6M