喧嘩が弱かったから原爆は落とされた

喧嘩が弱ければやられる。これは世界の常識。


 昭和20年(1945年)8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。9日には長崎に投下されました。

 日本陸軍は昭和18年夏より優れた数学者を集めアメリカの暗号解読をはじめ、昭和19年には解き始めていました。原爆投下前にはワシントンと交電ばかりしている不思議な飛行機が、アメリカ本土からサイパン経由で特殊な目的で日本に向かっていることまで読みましたが、もうすでに米軍機を迎撃する戦闘機がありませんでした。

 江田島にいた陸軍船舶練習部第十教育隊(斉藤部隊) 8月6日
「その時であった。突然、室内一杯が、目のくらむほどに光った。首すじが熱く、後方の広島方向の上空に大炸裂音がした。海岸に多数の燃料ドラム罐が集積されていたので、その爆発と直感して多くの者が海岸へとび出したが、何も異状はなかった。ただ、上空にB 29 一機が、広島上空から西南方向へ飛ぶのが見え、間もなく広島市に黒煙が昇りはじめた。上空には異様な雲状のものが認められた」

 船舶司令官佐伯文郎中将は「敵の新型爆弾広島市に投下さる。中国地区各基地の陸軍船舶部隊は、全力を挙げて復旧救援作業に従事すべし」と命令を発しました。斉藤部隊は宇品港へ入りました。そこで、見たものは凄惨な広島市民の姿でした。

「一五分で到着した宇品港は、一面夕暮れのようにうす暗い感じにおおわれていた。舟艇を船舶司令部の軍用桟橋に着けて上陸したが、すでに運輸部の岸壁には、血の海から匍いあがってきたような姿の市民が無数に待っていた。頭から顔・手・足、全身血だらけとなり、瀕死の体を横たえていた。悶絶する声、うめく声などみんなギラギラと眼だけを血走らせていた」

 斉藤部隊は救援活動を開始。負傷者を学校に収容しはじめます。負傷者を背負って校庭へ避難させましたが、はかどらず戸板を探し出して担架代りに使いました。「痛い、痛い」という呻き声を聞きながら、何度も繰返して運びます。中には痛いあまり「兵隊さん殺してください」という重傷者もいました。
 8月9日には受け持ち区域の負傷者収容が一段落し、今度は死亡者の火葬が重点となりました。10日、11日はの稲荷橋から比治山橋間の京橋川の中に浮遊している死亡者の収容を行ないました。川の水面は、家屋の破壊された材木その他で一杯に埋まり、潮の干満につれて、橋と橋の間を上下に流れましたが、死体もこれらにはさまれて上下していました。

 部隊の軍医であった内田大尉は、連日、夜遅くまで精力的に走り廻って救護作業にあたっていましたが、ある晩、内田大尉が部隊長に報告にいったとき憤然としてこう言いました。
「部隊長殿、戦争には負けられませんよ。今度の爆弾は、実に非人道的なものです。屍体の解剖所見によると、胃袋の内部を、ワイヤーブラシでこさいだようになっていたものや、内臓の小さな管までも、血液で閉塞していたものなど、まったく残忍なものです」

 国際法違反の民間人大量虐殺。それも原子爆弾という残忍な方法でやられた日には戦争は負けるわけにはいかない、と思うでしょう。

 しかし、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏しました。情報戦に負け、兵器でも負けました。喧嘩に弱かったから負けた。ディフェンスが弱かったから原子爆弾を落とされたのです。喧嘩に負けた象徴が原爆ドームです。恥の象徴、くやしさの象徴でしょう。二度とやられないようにするには喧嘩に強くなるのが道理でありましょう。死んで言った広島市民は兵隊に、「兵隊さん、きっとこの仇を取ってください。」と言っていました。「喧嘩に強くなれ、もう二度とやられてたまるか!」と言ったわけです。

 今の広島は死者の声を本当に理解しているのでしょうか。私たちはかわいそうな被疑者です、原爆はむごいです、平和、平和、軍縮、核を廃絶しましょう・・・こんなこと言っているだけで、二度とやられないようになるのか?核を捨てた国が一国でもあったか。なぜ中共の核と北朝鮮の核には文句を言わない?広島は「被害者ビジネス」「平和ビジネス」をやっているだけではないのか。そうだとしたら広島は似非平和主義者どもです。

 二度とやられないための武装をする。敵は喧嘩の強いやつには無理に手を出してこないでしょう。弱かったらバカにされる、そしてやられる。これが国際社会でしょう。

 武力を持っていると戦争になるとか似非平和主義者どもは言いますが、日本人でありながら日本の心を知らないようです。日本の武士道の「武」は「戈」(たたかい)を「止」(やめる)という意味です。武道の極意は「無刀取り」であり、相手を傷つけることなく武器を下させる、戦意をなくさせること、戦わずして勝つということです。一撃必殺の攻撃力を秘め、相手の攻撃を抑止します。「まごころ」で相手の邪心を払う。万一相手が向かってきたら当て身で気絶させます。これが2600年の歴史から生まれた日本の心です。



参考文献
 ワック出版「歴史通」2010.1月『国家の風格は情報にあり』藤原正彦
 「広島原爆戦災誌」広島平和記念資料館(編纂)
 ビジネス社「マインドコントロール2」池田整治(著)
添付画像
 Photo by 都築正男(1892-1961),木村権一(1910-1973)9月3日.広島第一陸軍病院(Hiroshima Dai-1 Army Hospital.) 宇品分院(PD)

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原爆被災記録映画(病院・救護所のようす)
http://www.youtube.com/watch?v=8Fl_Pj9Bt20