8月6日、広島の朝

あの夏の朝、原爆は投下された。


 昭和20年(1945年)8月6日広島。

 空襲警報 午前〇時二十五分発令
 午前二時十分 空襲警報解除
 午前二時十五分 警戒警報解除
 警戒警報 午前七時九分発令
 午前七時三十一分 警戒警報解除

 町内会の役員や警防団員は、前夜から警報続出のため、ずっと詰所に出動しづめで、灯火管制や警報の伝達、待避の連絡・誘導、あるいは防空監視哨の立哨などおこない、クタクタに疲れていましたが、ようやく解除になって、それぞれ自宅へ帰るか、帰る準備をしていました。
 各官庁をはじめ、会社・工場などの事業所でも、その近くの居住者は出動して防衛の任についたり、また防衛当番で一晩中不寝番を続けた者たちが、そのまま宿直室でくつろいだり、昼間の当番と交替したり、自宅へ朝食をとりに帰ったりしていました。
 大きな軍需工場や重要な施設では、屋上の対空機関銃座などに出動していた兵士らも、防空態勢を解いて帰営しました。
 一般の各家庭では、防空壕や指定避難場所からみな帰宅し、遅い朝食をとり、中にはもう職場へ出勤する者もありました。

 上流川町の広島中央放送局では、情報連絡室から、突如、警報発令合図のベルが鳴りました。このベルは軍管区司令部から情報が入ったときに、アナウンサーに知らせるベルです。古田正信アナウンサーは、第二スタジオ脇の警報事務室に駆けこみました。
「午前八時十三分、中国軍管区情報、敵大型三機、西条上空を西進しつつあり、厳重なる警戒を要す。」
古田アナウンサーは、廊下を足ばやに歩きながら、ざっと原稿に目を通し、スタジオに入るなり、ブザーを押しました。
8時15分「中国軍管区情報。敵大型三機、西条上空を… 」
と、ここまで読みあげた瞬間、メリメリッとすさまじい音がし、鉄筋の建物がグラッと傾き、からだが宙に浮きあがりました。

 原子爆弾は上空約600メートルのところで炸裂し、大閃光がひらめきました。数百万度の高熱により爆発真下にいた人たちは瞬間的に灰になりました。その直後に衝撃が起こり、火炎と烈風、熱火の嵐が巻き起こり、一瞬にして広島は壊滅しました。

 佐伯敏子(主婦)の体験記「一族一三人の死」(大塚にいた)
「山の上空を飛行機が一機飛び去ったかと思う束の間、すぐまた引返してどこかに消え去ってしまった。敵か味方か判らないまま、空を見上げていた瞬間、異様な光が空をこがし、全身熱気に触れたように熱く感じた。それから間もなく、大音響がして、家の建具が吹きとぶしまつ。あわてふためく姉は、すぐ倉の中に逃げようとすすめ、自分の子の手をひいてサッサと入ってしまった。私はただ呆然と空を眺め、モクモクと立ち昇る、かってみた事もない無気味な煙を見つめ、右往左往しているのであろう広島の肉親を思い、大声で泣きだした。物音も消え、静かになった庭に出て来た姉は、広島方面がただ事でないことを悟ったのか、『母さん、母さん。』と、広島に住む母を呼んで涙を流した。この光景に、子供たちもしゃくりあげて、しがみついて来る。そのうち、曇ってきた空からは、黒い黒い大粒の雨が降り、私は敵機から石油でも撒いたのでは、と思い、両手の中に雨をためて臭いをかいだり、なめてもみたが、そのような気配は無かった」

 第五航空情報連隊情報室勤務 黒木雄司 8月6日朝
「『班長殿!班長殿!』と、自分を起こすものがいる。先ほど勤務交代した田中ではないか。
班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたと、ニューディリー放送が放送しています。八時十五分に投下されたそうです。』(中略)時計を見ると、八時三十二分。広島に落とされて17分間で、寝ている自分が起こされ知る。おそらく敵機から交信で敵の司令部に、敵の司令部から放送局にどうしてこんなに早く知らされるのだろう」

 そして翌7日、ニューデリー(インド)放送。
「こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によれば、米軍は来る8月9日に、広島につづいて長崎に原子爆弾を投下する予定であることを発表しております。繰り返し申し上げます − 」



参考文献
 「広島原爆戦災誌」広島平和記念資料館(編纂)
 成甲書房「昭和天皇は知っていた 原爆の秘密」鬼塚英昭(著)

添付画像
 原爆投下によりできたキノコ雲(PD)

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広島原爆投下
http://www.youtube.com/watch?v=7OCkNa41A6g