卑怯者の支那兵

 1937年の第二次上海事件で、日本軍第三師団が上陸しようとしたとき桟橋の上に、日本の愛国婦人会のような多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えました。兵士は安心して次々に桟橋に降り立ちましたが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちに消え、支那軍による凄まじい一斉射撃を受けたといいます。

 支那兵というのはこういう卑怯者なのです。


福島民法 箭内正五郎記者(上海戦)

 上海で昼にお金を使って働かせていた捕虜が夜になると謀反を起し、営舎に手榴弾を投げたり火をつけたりしたことがありました。その時、火事になり私もマントが燃えたことがありました。また、便衣兵が手榴弾を投げたのを見つけて殺しています。ですから市民の服を着て死んでいる者もいました。


同盟通信 細波孝無電技師(南京戦)

 私は国際法で捕虜をやってはいかんというのが念頭にありました。それを見て(下関の死体を捕虜の処断だと推測していた)国際法を考えましたが、戦闘の犠牲者だと思いました。入城式までに城内の大掃除をやりましたからね。中国兵というのは捕虜というのか敗残兵というのか、そういうのがいて、いつ攻撃してくるかわかりませんからね。

 支那兵は捕虜になっても隙をみせたら襲ってくるんです。これはこのときの上海戦だけの話ではなく、前から支那兵というのは卑怯者だったということです。第一次上海事変のときも捕虜を検査したらピストルを隠しもっており、第二次上海事変でも苦労したのです。


新愛知新聞 南正義記者(南京戦)

 十二月十三日ですか、先頭の部隊とともに中山門(南京の城門のひとつ)から城内に入り、中山東路を進むと、街路樹のプラタナス日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました。
 あとでわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、そこで捕まった日本兵らしいのです。それを中山東路につれてきて、殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。下から火であぶっていました。

 支那兵というのは卑怯で残忍なのです。日清戦争でも日本兵捕虜は虐殺されています。そして食われている(シナ人には人肉を食べる習慣があった)。当時の日本人はこういうことをよく知っていたんですね。
 佐々木少将の記録には和平門に達すると支那兵が続々投降してきましたが、兵士が上官の制止を聞かず片っ端から殺戮したと書いています。戦場という狂気の世界の中で仲間が殺され卑怯で残虐な支那兵が不利となったらすぐ降参してくる。捕虜として扱えだと?やってしまえ、と前線の兵士がそういう感情になっても不思議ではありません。また降参と見せかけ襲ってくる恐怖もあります。国際法に抵触しないか、というのもあります。私は法律のことはわかりませんが、戦場という生死の狭間の中で法を守らないやつらを法で保護しろというのには無理があると思います。



参考文献
 「南京大虐殺まぼろし」鈴木明著
 「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一著

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