第二次上海事件でも日本人の悲劇があった

 支那人の残虐ぶりは通州に続いて上海でも存分に発揮されました。


 日本との全面戦争を決意した蒋介石は上海に軍隊を送り、昭和12年(1937年)8月13日、日本海軍陸戦隊へ攻撃を浴びせます。翌14日には支那爆撃数機が、日本海軍陸戦隊本部、総領事館、軍艦、船舶のほか市街地へ爆弾を投下しました。蒋介石は15日に全土に全国総動員令を下し、大本営を設置して蒋介石が陸、海、空の総司令に就任しました。
 
 日本海軍陸戦隊は10倍もの敵に奮戦し、日本人居留民を守り抜きました。通州事件の二の舞にならずに済んだのです。
 
 しかしながら、youtubeを見ますとこの上海事変で日本人捕虜、日本に協力した支那人が虐殺された写真が出ています。画質がよくありませんが、写真を掲載しているブログもありますので、下に記しておきます。心臓の弱い人は絶対に見ないでください。
 
 この前の盧溝橋事件でも日本軍天津駐屯兵が虐殺される事件がおこっています。日本兵は銃弾を受けて即死していますが、頭を真っ二つに割られ、脳みそを取り出され、右足を切り落とすという残忍な殺し方です。こういうのが支那人の虐殺手口です。
 支那軍に捕らえられた日本兵捕虜、というのはほとんど語られていないでしょう。生きて帰った人がいないからです。日本軍には戦陣訓といって「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」というのがあり、昭和16年に訓令として出されていますが、日米戦では捕虜もいますし、昭和14年(1939年)ノモンハン戦でも捕虜がおり、ソ連兵捕虜と交換しています。支那戦では全部殺されたと見て間違いないでしょう。支那軍の捕虜収容所など聞いたことがありません。
 第二次上海事件の後の南京戦を見ますと、日本兵捕虜が南京城内のプラタナスの木につるされ下から火であぶられていたのを従軍記者が目撃しています。2,3体だったと述べていますが、目立たなかっただけでもっといたかもしれません。

 支那事変の支那軍の残虐ぶりは支那の宣伝によって日本軍の仕業にすり替えられてしまいました。
 
外国人宣教師

「こちらの状況に関するアメリカの新聞報道は一方的であり、大袈裟すぎます。 − しばしば本当のようなウソが反日のためのプロパガンダとしてはびこってちるのです。我々(宣教師)は支那人に捕まり、殺された囚人の首が棒の先に突き刺されているのを見ております。支那の農民は支那の非正規兵による掠奪で一番苦しんでいるのです。もう匪賊とほとんど変わらない程度の軍隊なのです・・・」
日本兵は統制が取れています。そして我々をどんな形でも決していじめません。だから我々は喜んでこの善意の支那人とともに留まっております。しかしながら日本人についての真実は語られていません」



参考文献
 「大東亜戦争への道」中村 粲著
 「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一著
 「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一著
 「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著
参考サイト
 WikiPedia「戦陣訓」

日本人虐殺の写真を掲載したサイト
 http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html
 
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第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
 http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00