支那の残虐文明に慄然とした日本兵


 大阪毎日の記者・松村益二という人の「一等兵戦死」(昭和13年10月)という召集で戦地にいった記録、随筆に支那事変のときの支那軍の残虐さが書かれており、GHQ焚書図書開封3で紹介されています。


 僕の目にやきついている残虐の場面は記しておかなければならない。具体的には描写することは許されないだろう。簡単に書こう。
「我々は常に第一線にあって進撃した。そして残虐の場面をみた。支那兵はわれとわが同胞をたたきのめすのです」
 僕たちは敵を撃退せしめた。彼等の部隊の宿舎になっていた民家を掃蕩したとき、家の中に支那の婦人が裸体にされて、手足を縛られて死んでいた。婦人は臨月だった。彼女の肉体には残虐のかぎりがつくされていた。彼らはどうして自分のきょうだいを虐殺しなければならないのか。僕たちには解くことのできない謎である。
 家の中は掠奪の嵐に足の踏み場も無い。
 支那の農民が殺されている。素裸に引き剥かれて無造作に転がっている。敗残兵が着物をはいで農民に変装して逃亡するのだ。
 小さい可愛い子供が殺されている。母親が支那兵の悪魔のような手に捕らえられ、はづかしめをうけているのに泣いて抵抗した故なのであろう。
「おれたちの子供がこんな目にあわされたら・・・」

 こうした中には父母が支那兵に殺されたり、父母が逃亡したため、行き先の無い子供もおり、日本兵士はついつい子供と遊んでしまい、情が移り、前進命令が出て別れのときに涙してしまっています。

 これまでもいくつか紹介しましたが、支那軍というのはほとんど匪賊なのです。南京戦のときに住民は難民区という中立地帯に保護されていましたが、これは戦闘からの避難のほか、支那軍が匪賊になって襲うから避難していたのです。

福岡日々新聞・三苫記者の記事(南京で黄という男性と陳という女性にインタビュー)


記者:君の郷里は南京からそう遠くないじゃないか。なぜ避難しなかったのか。
黄 :それは途中に土匪が多いからです。中央軍(蒋介石の軍)もたくさんいます。
記者:中央軍がいた方が土匪が来なくて都合がよくはないか。
黄 :いいえ中央軍も土匪も同じです。金や品物を持っていれば、殺したり、強奪したりするのです。
陳 :それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。

 日本軍が大東亜戦争支那人をたくさん殺した、南京虐殺をやったなどという話は全くおかしいですね。
 戦後、共産党がやった文化大革命天安門事件チベット大虐殺、ウイグル大虐殺を見れば戦中、戦前、彼らが何をやっているか容易想像つくはずです。日本にはそんな虐殺文化はない。せいぜい織田信長比叡山焼き討ちと江戸初期のキリシタン弾圧ぐらいでしょう。だから支那の虐殺文化を見て驚き、記事になっているのです。


参考文献
 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二
 「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一著

添付画像
 南京中華門爆破の瞬間_支那事変写真全集<中>(朝日新聞昭和13年発行)(PD)

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