大東亜戦争・支那

猟奇の惨殺劇、通州事件

嗚呼、通州。抹殺された歴史。 昭和12年(1937年)7月29日、通州で大虐殺事件が発生しました。通州の冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は親日的政権でしたが、この政権の保安隊は国民党の息のかかった冀察(きさつ)第二十九軍軍長・…

仕組まれた盧溝橋事件

コミンテルンの策謀だった盧溝橋事件。 もう一度読む「山川 日本史」高校歴史教科書 「1937(昭和12)年7月7〜8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突がおこった(盧溝橋事件)。つづいて上海でも日中両軍が衝突し、戦禍は中国中部にもひろがった…

通州事件

人間の仕業とは思えない大虐殺。 昭和12年7月30日東京日日新聞(現在の毎日新聞)号外 「通州で邦人避難民三百名殆ど虐殺さる」 「半島同胞二百名も気遣はる」 当時の人は号外を見て驚いたでしょう。通州事件は昭和12年(1937年)7月29日冀東…

外国を干渉させろ 〜 第二次上海事変

日本の侵略などありません。 昭和12年(1937年)8月13日から始まった第二次上海事変で蒋介石軍のドイツ軍事顧問団は上海から撤退するよう蒋介石に進言しますが、蒋介石は「面子だ、面子」「世界の前で私は面子を失うだろう。外国の驚くべき宣伝を見…

第二次上海事件でも日本人の悲劇があった

支那人の残虐ぶりは通州に続いて上海でも存分に発揮されました。 日本との全面戦争を決意した蒋介石は上海に軍隊を送り、昭和12年(1937年)8月13日、日本海軍陸戦隊へ攻撃を浴びせます。翌14日には支那爆撃数機が、日本海軍陸戦隊本部、総領事館…

恨みは深し通州城

隠された残酷史。通州事件。 日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件がありましょうか。昭和12年7月29日、支那保安隊による日本人大虐殺「通州事件」です。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊(中国人部隊)…

支那の残虐文明に慄然とした日本兵

大阪毎日の記者・松村益二という人の「一等兵戦死」(昭和13年10月)という召集で戦地にいった記録、随筆に支那事変のときの支那軍の残虐さが書かれており、GHQ焚書図書開封3で紹介されています。 僕の目にやきついている残虐の場面は記しておかなけ…

上海、南京、更に支那軍の蛮行は続く

1937年の第二次上海事変で敗走した支那軍は上海から南京へかけて民間からの掠奪行為を繰り広げたばかりでなく、湯山から南京へ向けての農村地区ではほとんどの建物に火がつけられました。農村だけでなく南京城周辺の小さな街も焼き払われました。ニュー…

逃亡すると匪賊になる支那兵

支那事変当時、支那兵はいつも逃亡のことを考えており、便衣を隠し持っていました。逃亡すると匪賊になり、民家に押し入り掠奪、強姦、虐殺を行います。ときには自軍の陣営をも襲います。 日本に留学していて支那へ帰国したら徴兵にとられてしまった陳登元君…

敗走する支那軍の蛮行 − 上海

1937年11月5日、上海南方60キロメートルの杭州湾に面した金山衛に日本の第十軍が上陸。上海の街に「日本百万上陸杭州北岸」と縫い上げたアドバルーンがあげられました。これには支那軍が大きく動揺。9日には一気に崩れ、退却を開始します。退却と…

上陸部隊の大苦戦 − 第二次上海事変

コミンテルンのスパイだった国民党の張治中は対日戦に備えて、上海の陣地構築を行い、軍事輸送のための車両と船舶を支配下におき、食料を作戦予定地に蓄えておくよう政府に要請しました。衝突が起これば、4,5師を上海正面に投入し、日本の陸戦隊を一気に…