猟奇の惨殺劇、通州事件

嗚呼、通州。抹殺された歴史。


 昭和12年(1937年)7月29日、通州で大虐殺事件が発生しました。通州の冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は親日的政権でしたが、この政権の保安隊は国民党の息のかかった冀察(きさつ)第二十九軍軍長・宋哲元と裏で通じており、「盧溝橋で日本軍が二十九軍に惨敗した」というデマにより、通州の日本人を襲撃したのです。

 29日午前4時頃から銃声が鳴り響きました。冀東政府に出入りしていた同盟通信特派員・安藤利男は近水楼に宿泊していました。突然ボーイが駆け込んできて「特務機関あたりの日本の店やカフェーのところで、日本人が大虐殺されています」と一報を入れてきました。安藤らはすぐ屋根裏に隠れました。

「間もなく足もとがにわかに騒がしくなると銃声が屋内にパンパンひびき、下では早くも虐殺が始まったらしい。銃声にまじって身の毛もよだつ叫喚悲鳴が聞こえる」

 現場に最初に到着したのは許斐機関という軍属の民間人で組織する特務機関の許斐氏利で、事件の報が入ると天津から軽飛行機で通州に入りました。

許斐「冀東政府の(庁舎の)前にある池は日本人の死骸と血で埋まっていた。政府関係の日本人が泊まっていた近水楼は滅茶苦茶に荒らされていた。婦女子は陵辱の果て銃剣でなぶり殺され、旅館の壁には女の頭の皮が剥いではりつけてあり、いくつもの髪の毛がだらりと下がっていた」

 通州救援の第二連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄氏。
「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。(中略) 女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだようだった。(中略) 男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。(中略) 日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内蔵が散乱していた」

 これは支那人のお決まりの虐殺方式です。頭部切り落とし、眼球くり抜き、内蔵を引き出す、陰部突刺し、という猟奇的虐殺法です。

 通州へ急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長・萱島高氏
「旭軒(飲食店)では四十から十七〜八までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」

 苦しめておいて刺殺、あるいは射殺するというのも特徴でしょう。

 支那駐屯歩兵第二連隊小隊長・桜井文雄氏の証言
「鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体が・・・ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた」

 日本の新聞は「非愁の通州城」「鬼畜暴虐の限り」「一報ごとに凄惨」と事件を報じました。あまりにも惨たらしい猟奇的な大虐殺事件に当時の日本国民は激高しました。しかし、この事件は戦後の言論空間からは抹殺されました。東京裁判史観が言論空間を支配し、日本は加害者であって被害者であってはならないからです。歴史家もマスコミも口を閉ざしました。



参考文献
 展転社大東亜戦争への道」中村 粲(著)
 ウェッジ「特務機関長 許斐氏利」牧久(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編集)
添付画像
 日本軍により安寧を取り戻す通州1937年7月30日(PD)

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通州の丘(通州事件の歌・結城道子)
http://www.youtube.com/watch?v=QyIRH0J8eHM