外国を干渉させろ 〜 第二次上海事変

 日本の侵略などありません。


 昭和12年(1937年)8月13日から始まった第二次上海事変蒋介石軍のドイツ軍事顧問団は上海から撤退するよう蒋介石に進言しますが、蒋介石「面子だ、面子」「世界の前で私は面子を失うだろう。外国の驚くべき宣伝を見たまえ。そうはできない。干渉させるチャンスなんだ」
 
 蒋介石軍はなんとか外国の干渉をいれようとさまざまな試みを行います。日本軍を攻撃する以前の12日に支那は日本総領事と商社の電話線を切断します。13日に支那軍88師が租界から外に通じる道路をすべて遮断しました。これにより一般市民も閉じ込められることになります。そして支那軍機は英国人経営のキャセイホテルやパレスホテルに爆弾を投下します。これによって民間人2000人ほどの死傷者がでます。支那軍はバリケードや建物、移動車両の上に外国の旗を掲げさせるという暴挙まで行います。密集市街地の中心に塹壕を掘り、外国人の資産を遮蔽物にして銃を備え付けて、銃眼の着いた胸壁に第三国の旗をたてました。こともあろうに支那の民間人が建物の中にいっぱいになるとそれをバリケードとみなして支那軍は移動してきて射撃を始めるということまでやっています。何度も何度も日本側は支那軍に市民に近いところから戦闘地域を移動するように要請しますが、支那軍は拒否します。米国の新聞は支那の陰謀を隠し「新しい統一された支那が日本と闘っている」として日本軍の爆撃を見出しに掲げて金切声をあげたものもあったといいます。
 
 しかしながら蒋介石の目論見通りにはいかず、日本海軍陸戦隊は10日間もの間、不眠不休で10倍の敵と戦い、日本人居留民を守り抜きました。日本人居留民も土嚢を作るなどして必死に日本軍を助けました。陸戦隊が負ければ通州と同じように全員虐殺されていたでしょう。8月23日に日本陸軍上海派遣軍が上陸しました。陸戦隊の大健闘です。
 
8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節 NYタイムズ8月31日

「7月はじめに北京郊外で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実はひとつしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んではおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできるだけの努力をした。だが日本軍は支那軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。支那軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中で巻き込もうとする意図があるかのように思えた」

 この頃のNYタイムズは反日的だったといいますから、支那が明確に一方的に攻撃し、あまりにも卑怯で残忍だったということでしょう。しかしながら、現在の日本の言論空間はこの第二次上海事変から日本が支那を「侵略」したことになっています。



参考文献
 「大東亜戦争への道」中村 粲著
 「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一著
 「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著
 「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド著 茂木弘道
 「渡部昇一の昭和史」渡部昇一
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変

添付写真
 空爆によって炎上中の上海。日支どちらの空爆かは不明。手前は米国アジア(極東)艦隊旗艦の軽巡洋艦オーガスタ。(PD)

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