恨みは深し通州城

 隠された残酷史。通州事件


 日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件がありましょうか。昭和12年7月29日、支那保安隊による日本人大虐殺「通州事件」です。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。例えば岩波新書満州事変から日中戦争へ」加藤陽子著を開きますとこの事件については一切触れていません。

 この事件の背景には支那共産党と中華ソビエト共和国が昭和10年の八・一宣言を契機に反日組織を続々誕生させたことがあります。昭和10年11月に冀東防共自治委員会が成立しています。宋哲元が委員長に就任します。保安隊の第一総長は張慶餘(ちょう けいよ)で、彼は宋哲元と会い、抗日決意を述べ、宋哲元は軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれ、と命じカネを渡します。すでに共産思想にそまっていたわけです。

 昭和12年7月7日に盧溝橋事件が勃発すると保安隊は支那の第二十九軍の開戦に呼応して通州で決起するよう指示をうけ、第二十九軍の戦闘序列に編入になります。そして保安隊は通州城に集結します。このとき南京放送で「日本軍敗走」「冀東を攻撃、殷 汝耕(いん じょこう)を血祭りにする」というデマが流れ、恩賞に預かるため保安隊は手薄な日本守備隊を攻撃し、日本人民間人を殺戮しました。

 これには日本軍の支那二十九軍宝通寺部隊への爆撃にミスがあり保安隊を誤爆したことを原因とする説がありますが、誤爆は27日のことで、直ぐ特務機関長が冀東政府の殷汝耕に陳謝し、機関長自ら現場を視察し、遺族の弔意に奔走し、保安隊幹部一同に対して誤爆を釈明し慰撫に努めているので、日本人虐殺の契機になったとは考えにくいです。

 通州大虐殺は29日明け方から始まり、日本人はなぶり殺されました。午後4時になって日本軍機が爆撃を行い、保安隊は通州から撤退します。救援部隊が到着したのは30日の朝でした。

当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアム

「日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」


参考文献
 「大東亜戦争への道」中村 粲著
 「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一著
 「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著
参考サイト
 WikiPedia通州事件
 
添付画像
 通州事件の生存者(PD)
 
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恨みは深し通州城 奥田英子
http://www.youtube.com/watch?v=9aFaxTs6IzA