敗走する支那軍の蛮行 − 上海

 1937年11月5日、上海南方60キロメートルの杭州湾に面した金山衛に日本の第十軍が上陸。上海の街に「日本百万上陸杭州北岸」と縫い上げたアドバルーンがあげられました。これには支那軍が大きく動揺。9日には一気に崩れ、退却を開始します。退却といっても本来は途中に防衛線がいくつかあり、ドイツ軍事顧問団の苦心策「ヒンデンブルク・ライン」で態勢を立て直し、日本軍を迎え撃つことができる。しかし、支那軍は誰もそうすることはありませんでした。3ヶ月にわたる上海の戦いは終結しました。

 支那の兵たちは退却時にはそこらの民家に押し入り、めぼしいものを略奪した上で火を放ちました。日本軍に雨露しのぐ屋根と糧秣を残さないための作戦です。

 蒋介石日記には以下のように記されています。

「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」(11月30日月間総括)

 この支那軍の行為は日本軍にすりかえられて述べられていることが多いので注意が必要です。三光作戦といい、日本軍が「焼き尽くす、殺しつくす、奪いつくす」という三光の作戦を展開したというものです。以前にも書いたのですが、日本語の「光」に焼く、殺す、奪うという意味はなく、支那語にその付帯意味があります。日本軍が作戦名を支那語でつけることはありません。

 犬飼総一郎(第十六師団通信班長・陸軍中尉)
「自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫も29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州支那兵による略奪の跡歴然たるものをこの目で見た。いかにそれが物凄いか、すざまじいものか、全く想像外であった」

 北支作戦のほうですが、そこでも日本兵支那兵の同様の所業を記しています。
「隆平県城になだれこんだ敗残兵は、まず住民から衣類を奪って便衣となり、次に食料を奪い、財宝を奪い、明け方を待って逃げ出す算段で、城壁が既に日本軍によって占領されているのも知らず、城内は敗残兵による掠奪、暴行、殺傷等で阿鼻叫喚のちまたと化し、日本兵はただしばし呆気にとられて、この地獄図を城壁から眺めていた」



参考文献
 「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一著
 「歴史通」WiLL別冊10月号『日本を潰せ − 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
 日新報道「南京の真相」
 「『南京事件』の総括」田中正明

添付写真
 敗走後に首都南京を焦土とする支那の狂気を伝える当時の新聞 日新報道「南京の真相」より


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