仕組まれた盧溝橋事件

コミンテルンの策謀だった盧溝橋事件。




 もう一度読む「山川 日本史」高校歴史教科書
「1937(昭和12)年7月7〜8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突がおこった(盧溝橋事件)。つづいて上海でも日中両軍が衝突し、戦禍は中国中部にもひろがった。日本がつぎつぎ大軍をおくって戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗した」

 まるで、盧溝橋事件をきっかけに日本が支那を侵略していったかのような書きっぷりです。当時、条約に基づいて日本軍は北京郊外に駐屯していましたが、その数、5600。対する支那の宋哲元の率いる二十九軍の兵力は15万。当時、日本軍の総兵力が約25万で、支那はその9倍の常備軍を持っていました。これで日本の侵略が成り立つはずはありませんが、教科書ではこういう事実を隠して日本国民を洗脳してきているわけです。

 7月7日、日本軍は支那側に事前に演習を行う旨を通達し、宛平の北、龍王廟付近において空砲を使って夜間演習を行なっていました。

 7日PM10:40、突然、数発の銃弾が撃ち込まれる。

 8日AM03:25、またも龍王廟から銃声。

 8日AM05:30、再び龍王廟とそばの堤防から攻撃を受ける。

 ここで日本軍は遂に反撃しました。すると宛平県城、盧溝橋上、川中島などから日本軍に銃砲撃が集中してきました。

 この数時間後に延安の共産党から七八通電というのが発信されます。
「七月七日夜十時、日本は盧溝橋に於いて中国の駐屯軍馬治安部隊に対し攻撃を開始し、馬部隊に対し、長辛店への撤退を要求した。日本軍のかかる徴発行為が遂に大規模なる侵略戦争にまで拡大するか否かにかかわらず、天津と華北は日本軍に武装侵略される危険があり頗(すこぶ)る切迫している。(中略) 中華民族が抗戦を実行することが我々の責務であり、宋哲元軍は即時動員して応戦する様に、南京中央政府は二十九軍を即時有効に援助せよ、全陸海軍、全国民衆の愛国運動を結集して侵略日本軍に立ち向かうべし」

 遠く1000キロも離れた延安から手早い発信であり、しかも日本軍の反撃は午前5時であるのに、前日の午後10時と書いてあります。明らかに事前に用意されていたものでしょう。支那派遣軍情報部北平支部長、長秋富重次郎大佐は、「事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍指令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。『成功了』(成功した)と三回連続反復送信していた」と証言しています。盧溝橋事件は仕組まれていたものでした。
 支那二十九軍副参謀長の張克侠は秘密共産党員であり、日本軍への全面攻撃作戦を計画し、共産党北方局主任・劉少奇がこれを承認していました。そしてこの計画が実行されたわけです。

 日本側は不拡大方針をとっており、事件勃発4日後の7月11日には停戦協定が結ばれました。しかし、この停戦協定もことごとく支那側に破られていくことになります。教科書はこのことも隠しています。

 支那が計画的にしかけた盧溝橋事件。しかし、日本の教科書はこの事件をきっかけに日本が侵略していたかのように国民を洗脳しています。中共から日本が侵略した!と、100年も200年先も言われ、洗脳された日本国民は下をむいて、せっせとODAや毒ガス処理というように中共に貢物をしなければならないわけです。

 しかし、本当の歴史を知っていれば中共の歴史攻撃に反撃することができます。前杉並区長、創新党党首の山田宏氏は平成5年(1993年)に衆議院議員になり、国会議員団の一員として中共を訪問しました。このときの意見交換の場で中共側の発言者が、盧溝橋事件に始まる日本の侵略を批判しました。日本の国会議員はうなだれて聞いていましたが、山田氏は手を挙げて発言しました。そこで盧溝橋事件の7月11日の停戦協定を引用し、中共側発言者への異議を唱えたのです。すると、驚くことに中共側は議事を打ち切ってレセプションに変えてしまったのです。山田氏だけは教科書に洗脳されず、自分で歴史をきちんと調べていたようです。「歴史力」、これは必要です。教科書も正さねばなりませんが、戦後言われてきたことは疑ってかかるべきで、自分で調べてみる必要があるでしょう。



参考文献
 山川出版社「もういちど読む 山川 日本史」五味文彦・鳥海靖(編)
 展転社大東亜戦争への道」中村 粲(著)
 小学館日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 別冊正論Extra15「日中戦争を始めたのは中国共産党スターリンだ」藤岡信勝

添付画像
 アサヒグラフ昭和21年9月1日より。北京付近の長辛店付近で中国軍が爆破した線路を護衛しながら応戦する皇軍兵。8月10日撮影。(PD)

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盧溝橋事件を教科書風に短くまとめて書くのであれば次のように書くべきである。
「1937(昭和12)年7月7日、北京郊外に於いて日本軍は空砲で演習をしていたが、支那軍が突然攻撃を加えてきた(盧溝橋事件)。この事件は支那共産党の計画だった。日本軍は不拡大方針だったが、停戦協定はことごとく支那側に破られ、遂に日本側は内地3個師団の動員を下令した。つづいて上海でも支那の3万にもおよぶ大軍が、海軍陸戦隊2千2百によって守られている日本人租界を包囲、攻撃し(第二次上海事件)、日本は更に師団を派遣せざるをえなくなった」