処刑の朝 〜 ニ・ニ六事件

農村は救えなかった。


 昭和11年(1936年)2月26日、政府に不満を持つ若手将校らが昭和維新を称えて決起したニ・ニ六事件が起こりました。この頃、昭和大恐慌によって米や生糸が暴落し、農村は大打撃を受けていました。

 決起将校の一人、対馬勝雄中尉
「自分の実家は青森ですが、知り合いの家では芋のつると麦こがすで飢えをしのいでおったです」

 将校らの部下には貧しい農村の次男や三男、中小商工業の家庭の子弟が多くおり、常に彼らから生活の苦難が訴えられ、「何とかせねば日本は救われぬ」という義憤がありました。
 決起将校らは部隊を率いて総理大臣・岡田啓介内大臣・斉藤実、侍従長鈴木貫太郎、蔵相・高橋是清教育総監渡辺錠太郎、前内大臣牧野伸顕、を襲撃し、陸相官邸に行き、「大臣への要望事項」を提出しました。しかし、天皇より奉勅命令が出て、彼らは「反乱軍」とされ、鎮圧されました。決起将校らは逮捕され護送されました。護送車の中で将校の栗原安秀中尉は仲間の磯辺元一等主計にこういいます。

「おい、このままではいつまでたっても農村は救えないなあ。俺たちが死んだら、後に残った下士官兵たちが維新をやり遂げてくれるかな」

 決起将校らは軍法会議にかけられますが、弁護人なし、非公開、上告なし(一審のみ)という異常な裁判の中で行われました。(特設陸軍軍法会議という戦時、戒厳令下の裁判)そして16人に死刑判決がでます。

 死刑判決からわずか5日後の7月12日に死刑が執行されました。その処刑の朝、決起将校の一人、香田清貞大尉は監房で「皆、聞いてくれ、殺されたら、その血だらけのまま陛下の元に集まり、それから行く先を決めようじゃないか」それを聞いた全員がそうしよう、と声を合わせ「天皇陛下万歳大日本帝国万歳」と全監房を揺らさんばかりに叫びました。
 午前7時、最初の銃声が一発響き渡りました。彼らは最後「天皇陛下万歳」と叫び、銃殺されました。一人、栗原安秀中尉は「天皇陛下万歳秩父宮殿下万歳」と秩父宮殿下を加えて叫びました。

 死刑執行の指揮をした山之口甫大尉
「私は心の中で<許せ>と叫びつつ、合図の腕をふった」

 栗原中尉の遺骸受領に来た父親
「衆とともに裏門より死体安置所に入り、棺蓋を開いて一同告別を行いました。(中略)眉間に凄惨なる一点の弾痕、眼を開き、歯を食い締りたる無念の形相、肉親縁者としては誰か泣かざる者がありませう。一度に悲鳴の声が起こりました」

 栗原安秀・遺書

「父上様 母上様
 私は親子の情を知って居ります。然し大義の為に心を鬼に致しました。どうかお許しください。
 私の入獄中手紙を下さいました。種々な物を差し入れて下さいました 私はその度に泣きました 決して卑怯な気持ちで泣いたのではありません 父上様母上様の下に幼く在った時を思ひ起こしたのです 私は腸を断ち切られる思ひが致したのです・・・」
 妻へ
「玉枝よ
 僕はそなたに感謝する よく理解しよく努力し僕を愛して呉れた 僕が時に夫らしくなかった時もそなたは実に貞淑な妻であった
 玉枝よ
 今度程僕は夫婦の絶対愛を知った事はなかったよ 僕はそなたを思ひ出し共に笑っていた そなたの息を耳の傍らに聞いて居た
 嗚呼何と云う幸福な境地に僕等は居るのだらう どんな苦しみもどんな迫害も到底僕等の絶対生活を破壊できないではないか」

「玉枝よ
 よく涙を拭いて強い子にお成り そして父君母君を慰め妹達を可愛がっておやりなさい 恐らくそなたの持つ快活さは栗原家の喜びの泉になるだらう 又安雙家(妻の実家)の為にもそふだ それからまだ云うことがあった
 玉枝よ
 そなたは皆に二人の生活は楽しかったと宣言しなければならない
 何もかも思ふことなし唯清き玉枝の瞳求めつつ

 七月四日夜  そなたの夫 安秀」
 遺詠
  君が為捧げて軽きこの命 早く捨てけん甲斐ある中  七月七日



参考文献
 ちくま文庫昭和維新の朝」工藤美代子(著)
 河出書房新社「図説 2・26事件」太平洋戦争研究会(編) 平塚柾緒(著)

添付画像
 2月26日、芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊(PD)


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昭和維新の歌  映画 『2・26』 より
http://www.youtube.com/watch?v=xtQNFqmGucM