脱出した岡田首相 〜 ニ・ニ六事件

奇跡的に助かった岡田首相。なぜ助かったのか。


 昭和11年(1936年)2月26日、政府に不満を持つ若手将校らが昭和維新を称えて決起した、ニ・ニ六事件が起こりました。この時、首相官邸が襲撃されましたが、岡田首相はなんと2日後の28日蜂起軍包囲の中、首相官邸を脱出したのです。

 首相官邸は午前五時過ぎ、栗原中尉の隊が襲撃しました。首相官邸ですから、40人近い護衛警官が泊り込んでいましたが、丁度巡査詰め所の寝込みを襲われ、武装解除していたので大半が軟禁されてしまい、蜂起軍に応戦したのは首相身辺の警護にあたっていた数人の警察官だけでした。また、官邸には警視庁の特別警備隊「新撰組」に通じる非常ベルがありましたが、駆けつけようとした「新撰組」は途中で蜂起軍の警備線に遮られ全員武装解除させられてしまいました。

 首相官邸の襲撃隊は警官と銃撃戦を交えながら首相を探します。やがて日本間の中庭に逃れる老人が発見され、射殺されました。襲撃隊はこれが岡田首相だと思いました。しかし、この人は岡田首相の義弟で松尾伝蔵陸軍予備大佐でした。義弟ですが、岡田首相と大変よく似ており、髪を短くするなど凶変に供えてわざわざ似せていたと言われます。(添付写真 左が岡田首相、右が松尾大佐。似てないと思うが・・・)
 襲撃隊は日本間にあった岡田首相の写真を持ってきて松尾大佐の顔と見比べて「これだ、これだ」と叫び確認しました。また、その後、蜂起軍の軍師のような役割だった齋藤瀏予備少将がやってきて、松尾大佐の遺体を確認しますが、齋藤少将も写真でしか岡田首相を見たことがなく、本人だと思ったようです。しかし、勘鋭い人なのか襲撃隊の将校に「寝床は此処だけか?」と尋ねました。官邸くまなく探したと答える将校に、納得したようです。

 実は松尾大佐が撃たれた様子を岡田首相は風呂から目撃しており、この後、女中部屋押入れに身を隠しました。陸相官邸から青柳憲兵軍曹、篠田憲兵上等兵が駆けつけ襲撃隊に紛れて官邸に入り、女中部屋を覗いたとき、二人の女中が押入れの前に座って動こうとしないのを不審に思い、強引に押入れをあけると、そこに岡田首相がいました。そこで憲兵「よしわかった。そのままにしていなさい」といい憲兵分隊に戻ります。

 この首相官邸襲撃を迫水秘書官が隣接する官舎から様子を見ていました。「とうとう仕留めたぞ」と襲撃隊の叫びを聞き、じっとしていられなくなり、電話で襲撃隊の将校に交渉して、遺骸の検分を認めてもらいました。襲撃から3時間ほどたった午前八時半、仲間の秘書官と首相官邸に入り、遺体の掛け布団をめくると二人とも<お>と言葉を呑みます。松尾大佐だったからです。二人は首相ということにしておこうと小声で申し合わせ、襲撃隊の将校が「間違いありませんね」と訊くと「間違いありません」と答えました。
 さらに二人は女中部屋に行き、女中に「怪我はなかったかね?」と聞くと「お怪我はございませんでした」と答えたのでハっとして女中の後ろの押入れに岡田首相が隠れていることに気づきます。

 これから秘書官と憲兵の岡田首相救出作戦が開始されます。依然、官邸を占拠している決起軍に弔問の許可をもらい、老人ばかり十人を集めて弔問に訪れ、遺骸安置の部屋に通します。決起軍の巡回の切れ間に憲兵が女中部屋から首相を連れ出し、総理を抱えるようにして門まで連れていき「遺骸をみちゃあいかんと言ったのに仰天したんだ。困った老人だ」といいながら車に乗せ脱出させました。実にスリリングな話です。

 岡田首相はこの後、昭和天皇に拝謁します。
 首相の回顧「生きてお目通りを願い出た私をご覧になって、たいへんお喜びのご様子である。その間約3分、つつしんで御前を引き下がった」

 岡田首相は頼りとしていた高橋是清蔵相と身内の松尾大佐を一挙に失った事に対して強い自責の念に駆られており、昭和天皇「周囲のものが、よく気をつけて考え違いのことをさせぬように(自決のこと)」と侍従次長を通じて迫水秘書官に伝えたといいます。



参考文献
 ちくま文庫昭和維新の朝」工藤美代子(著)
 河出書房新社「図説 2・26事件」太平洋戦争研究会(編) 平塚柾緒(著)
 講談社学術文庫昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)

添付画像
 左が岡田首相、右が松尾大佐(PD)

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