二・ニ六事件の首魁にされた北一輝

北一輝二・二六事件の首魁だったのか。

 

 昭和11年(1936年)2月26日、帝都に激震が走りました。陸軍の青年将校らが「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げ、武力をもって蹶起しました。ニ・ニ六事件です。この事件の首魁にされたのが北一輝(本名:北 輝次郎)です。

 北一輝国家社会主義者であり、大正12年(1923年)、「日本改造法案大綱」を発表しました。北の信仰者であった西田税(にしだ みつぎ)は陸軍の青年将校に普及させ、取り込んでいきます。そして北一輝のものとに青年将校が集まるようになります。北は次のように煽ったといいます。

「軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。おかげで腐敗した政治に染まらなかった。いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなたがたです」

 昭和11年2月18日、西田税は栗原安秀中尉と会い、蹶起(けっき)を確信し、北にその旨を伝えます。24日には村中孝次元大尉が北の家を訪れ、「蹶起趣意書」を書きました。

 2月26日の朝、青年将校らは部隊を率いて、総理大臣官邸、大蔵大臣、内大臣侍従長、陸軍教育総監、前内大臣を襲撃。斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺害します。そして、陸相官邸で「蹶起趣意書」「大臣への要望事項」を読み上げました。そして、大御心を待つことになります。しかし、事件は昭和天皇の逆鱗に触れ、蹶起軍は反乱軍とされ、あえなく鎮圧されてしまいました。

 北一輝は2月28日に逮捕されました。西田は逃亡し、3月4日に逮捕されました。青年将校、北、西田らは軍法会議にかけられます。ここで北、西田は事件の「首魁」とされたのです。公判は12回開かれ、吉田悳(よしだ しん)裁判長(大佐、裁判中に少将昇進)は「幇助・従犯」以上のものではないと考えていましたが、他の判士は北と西田を「首魁」とみていました。そして北、西田に死刑が求刑されます。

 吉田裁判長手記
「論告は殆ど価値を認めがたし。本人または周囲の陳述を藉(か)り、悉く(ことごとく)之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。そもそも今次事変の最大の責任者は軍全体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きは、国民として断じて許し難きことであって・・・」

 北一輝が首魁であったとしたら、彼の国家主義思想は天皇も国家の一部という考えでしたから、宮城(皇居)を占領し、天皇を独占したでしょうが、それは行われていません。どうやら陸軍が軍の面子を保つため北らを首魁にしようと圧力をかけたようです。吉田裁判長は職を賭して奔走しましたが、8月14日、北と西田に死刑判決を言い渡すことになりました。

 吉田裁判長手記
「八月十四日、北、西田に対する判決を下す。好漢惜しみても余りあり。今や如何ともするなし」

 憲兵史編纂者として記録を残した大谷敬二郎東部憲兵隊司令
「西田、北一輝の二人は、一般にはニ・ニ六事件の黒幕として理解されているが、決してそうではない。たしかに西田は軍に青年将校運動をつくり上げた張本人であったが、この事件における因果関係は浅い。また北には革命の法典といわれた『日本改造法案大綱』があり、一部の青年将校を魅了したことは事実であるが、彼はこの事件には参画していない。これを以って軍法会議が、この二人をニ・ニ六事件の首魁と判定して死刑にしたことは、なんとしても酷なことであった」

 北一輝辞世の句「若殿に兜とられて負け戦」

 昭和12年8月19日、北一輝西田税、磯辺浅一元陸軍一等主計、村中孝次元大尉とともに処刑されました。



参考文献
 PHP「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」田原総一朗(著)
 河出書房新社「2・26事件」太平洋戦争研究会(編)・平塚柾緒(著)
 ちくま文庫昭和維新の朝」工藤美代子(著)

添付画像
 北一輝(PD) 右目は義眼

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