EUの父・青山栄次郎(リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー)

EUの父には日本人の血が流れていた。


 リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーは、明治27年(1894年)11月16日東京生まれのオーストリアの政治家で、汎ヨーロッパ主義を提唱し、それは後世の欧州連合構想の先駆けとなり、「EUの父」と呼ばれました。別名、青山栄次郎。父はオーストリア・ハンガリー帝国の大使ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵、母は東京牛込の豪商の娘、青山ミツ。

 カレルギー伯爵と光子(青山ミツ)は明治29年(1896年)1月28日、二人の息子ととともに東京を発ち、オーストリア・ハンガリー帝国へむかいました。リヒャルトはわずか1歳。旅の途中でリヒャルトは重病になり、頬がすごく腫れ、梅ぐらいの大きさの腫瘍となります。船医が手術し、腫瘍の中のものを取り除き、一命を取り留めました。リヒャルトの頬にエクボのようなものがあるのはこのときの手術の跡であると母、光子は述べています。左右どちらの頬かわかりませんが、リヒャルトの写真と切手は左の頬が移っており、その跡が見られないので、右の頬と想像できます。

 リヒャルトは大人になり、14歳の年上の女優イダ・ローランと結婚すると申し出、母、光子は「貴族のあなたがなぜ女優風情と」と反対したところ、「母上も異国の商人の出ではないですか」といって家を飛び出しました。このことは身分云々でよく言われる話ですが、19歳の学生である息子が33歳の女性と結婚すると言えば、普通誰でも反対するでしょう。また、イダ・ローランは随分派手で親戚中が反対したようです。

 このリヒャルトは国際法学者となり、満州事変のとき日本の歩みに深い理解を示し、論文を発表しています。
「日本は国際連盟で鄭重なる言辞を以って、而も(しかも)強硬なる行動をもって世界に対し、『満州より手を引きなさい』と叫んでいる。日本は第三国の干渉や仲裁を用いずに、直接の商議を支那との間に開かんことを要求している。すなわち日本は極東に於ける『モンロー』主義を要求しているのである。(中略) 米国及び英国の『モンロー』主義を承認している国際連盟が単り(ひとり)極東『モンロー』主義だけを拒否し、アジアを無制限に連盟の権力化に置かんとすることは困難であろう」

 さらにリヒャルトは欧米各国の例をあげて日本だけを悪者にすべきでないとし、論文の最後を次のように結んでいます。
「今日本は、極東に於ける西洋文明の占守であり、治安の巨厳である。ロシアのボルシェウィズムと支那無政府状態の怒涛を破って立つ岸壁である」

 国際情勢もしっかり見ていることがわかります。

 リヒャルトは1923年に「汎ヨーロッパ主義」を著しセンセーションを起こしました。翌年に汎ヨーロッパ会議を設立。しかし、ドイツのヒトラーにとって「汎ヨーロッパ主義」は邪魔であり、1938年のオーストリア併合後、彼はチェコスロバキアハンガリー、ユーゴ、イタリアを経てスイスへ逃避行。さらにフランスを本拠にするも、1940年フランスがドイツの手に落ちるとスイス、ポルトガルを経てアメリカに逃げました。戦後、1947年にはヨーロッパ議員同盟を創設するなど、ヨーロッパ共同体の進展に尽力しました。

 ちなみにリヒャルトは友愛思想の提唱者で鳩山一郎がこの友愛思想に感銘を受けています。さらに孫の、鳩山由紀夫が「友愛」を掲げて総理大臣になりましたが、この「友愛」は本来は誰に対しても発揮するものではなく、精神文化の共通性のあるものに適用するものだそうで、鳩山由紀夫前首相は誤解釈し、何にでも適用しようとして、ブレまくり、日本をムチャクチャにしました。リヒャルトも光子も天にいて嘆いていることでしょう。



参考文献
 河出文庫「クーデンホーフ光子の手記」シュミット村木眞寿美 翻訳
 オークラ出版「世界を愛した日本」『”EU生みの親”の生みの親』但馬オサム
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
参考サイト
 WikiPedia「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー」
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添付写真
 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(PD)

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