三国干渉

臥薪嘗胆、日本人は耐え忍んだ。


 日清戦争に勝利した直後の明治28年(1895年)4月23日、日本には晴天の霹靂ともいう通牒が舞い込みます。ロシア、ドイツ、フランスの三国が日清戦争で得た遼東半島を清国へ返せ、といってきたのです。「三国干渉」というものです。
 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によるとロシア艦隊は塗装をことごとく戦闘色に変え、各艦とも砲弾を満載し、いつでも命令一下東京湾に侵入して砲弾の雨を東京に降らせるだけの態勢をとっていた、と書かれています。陸奥外相は「誰がこの政局にあたっても、屈する以外の策がなかったであろう」と述べています。

 三国干渉に明治政府は涙を呑んでそれを受け入れました。日本国内ではものすごい反対運動が沸き起こっています。暴動に近い反発もおきます。激昂した世論を抑えるために明治天皇が「遼東還付の詔勅」を発するという事態になっています。

「深く時勢の大局に見、微を慎み漸(ぜん)を戒め、邦下の大計を誤る事なきを期せよ」

 この詔勅を受けて翌日の新聞には「大御心の深きにたいし奉り、ただ血涙あるのみ。読み終わりて嗚咽言うところを知らず、帝国臣民たる者、宜しく沈重謹慎、以って他日の商定を待つべきのみ」と報じました。そして「臥薪嘗胆」という言葉が叫ばれました。

 この頃のことをオーストリア・ハンガリー帝国公使のハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵と結婚した青山光が手記に残しています。それによると日本国民は興奮して西洋を恨んだと書いています。オーストリアハンガリーは三国干渉とは直接関係はありませんが、日本人から見れば白人、西洋人は区別ができません。ロシア、ドイツ、フランスの大使館には秘密警察が警護にあたり、オーストリアハンガリー大使館にも4人の秘密警察がつめ、どこへ行くにもついて来たと述べています。

 この三国干渉を契機に日本は軍事力の強化に努めるようになります。「坂の上の雲」によると明治30年度の総歳出の55%が軍事費であっても国民の不満はほとんど出てこなかったと書いています。そして日露戦争までに第一級の戦艦6隻、装甲巡洋艦6席をそろえ六六制による新海軍を作りました。英国の海軍評論家アーキバルト・S・ハードは「日本人は信じがたいことをした」と述べています。坂の上の雲では「日本人は大げさにいえば飲まず食わずでつくった」と表現しています。
 
 明治33年(1900年)、北京で義和団事件が勃発します。このときも日本は三国干渉の余波が残っており、英国がしきりに日本が出兵するように催促していますが、日本は三国干渉という前例があるので、出兵したあとで何かと文句をつけられると堪らない、と言って渋っています。しかし、「人道上」ということで断るわけにもいかず、日本は出兵することになります。この義和団事件をきっかけに日英は急接近し、日英同盟を結ぶことになります。三国干渉から日英同盟、そして日露開戦と、日本は歴史上かつて経験のない激動の時代を迎えていたのでした。



参考文献
 「坂の上の雲司馬遼太郎
 「坂之上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
 「クーデンホーフ光子の手記」シュミット村木真寿美 翻訳
 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二
 「大東亜戦争への道」中村粲

添付画像
 黄海海戦で破損した戦艦「三笠」の後部砲塔(国立公文書館 日露戦争写真館より http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm

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