レディー・ミツコ

クーデンホーフ光子。


 私には妹がいるので、妹が持っていた漫画をいくつか読んだことがあります。その中に「レディー・ミツコ」というのがありました。なかなか面白かったです。「はいからさんが通る」で知られる大和 和紀(やまと わき)さんの作品です。
 このレディー・ミツコは青山ミツのことで、明治25年(1892年)オーストリア・ハンガリー帝国の大使ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と結婚しました。この夫婦の次男がリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーという人で汎ヨーロッパ主義を提唱し、後世の欧州連合構想の先駆けとなり「EUの父」と呼ばれる人です。

 光子は東京牛込の豪商の三女です。カレルギー伯爵の出会いは、伯爵が店の前で落馬して怪我をしたところを介抱したというのが有名でしょう。ただ光子の手記にはそのことが書かれていません。おそらく美談として作られたものでしょう。光子の手記を翻訳したシュミット村木眞寿美さんによると光子の子供たちは日本から入ってきた「落馬の逸話」を信じる人はいなかったといいます。
 光子とカレルギー伯爵の結婚は伯爵が来日して二週間というハイスピードです。このハイスピードからラブロマンスが生まれたと思われます。実際にはカレルギー伯爵と光子の父の間に何かあったようで、光子はオーストリアの土を踏んだとき「パパと父の間には『一件』あった」と漏らしており、父親が夫から「一生暮らしていけるだけの金を受け取った」と次男リヒャルトが回想しています。

 光子は夫と日本で4年間暮らし、その間二人の子をもうけました。そして二人の子を連れて渡欧し、オーストリア・ハンガリー帝国の西南ボヘミアで暮らすことになります。東京を発ったのは明治29年(1896年)1月28日のことで、その前に皇后陛下に謁見しています。この頃、欧州の貴族と日本女性の結婚は前代未聞のことでした。皇室はこの結婚にはとても寛大で、皇后陛下は光子に象牙の扇子を与えています。そのことについて光子は「身に余る名誉」と手記に書いています。このとき、皇后陛下から「遠く異国にあっても日本人の誇りを忘れぬように」というお言葉を賜っています。皇后陛下はその後も光子のことを気にかけ、光子がヨーロッパに渡った後に、ハンガリーの伯爵が日本にたちよったとき、光子のことやその子供たちのことを興味深く尋ねられたといいます。

 ヨーロッパに渡った光子にたいして周囲の目はやはり東洋女性に対する好奇と偏見があり、夫ハインリヒは「光子を欧州婦人と同等に扱わぬものには決闘を申し込む」宣言し、終生妻を庇いつづけたといいます。そのうち、日露戦争で日本がロシアを破ると周囲の偏見も和らぎますが、1906年、夫ハインリヒが急死。1914年には第一次世界大戦が始まり、オーストリアハンガリーは日本の敵国となってしまいます。光子は二人の息子を従軍させ、自らも赤十字を通しての食糧支援に奔走し、第二の祖国のために尽くしました。しかし、第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊し、皇帝カール一世は国外へ亡命、栄華を誇ったカレルギー家も領地、財産の多くを失います。やがて次男リヒャルトが年上の女優と結婚すると言い出し、それに反対したことで、リヒャルトは家を飛び出してしまいました。

 光子49歳のとき、脳溢血で倒れ、以後死ぬまでの18年間をウィーン郊外のメードリングで療養生活をすごします。次男リヒャルトの名声が光子の耳に届いたのはかなり後年で、そのとき、光子はひどく驚き、喜び、涙を流したと伝えられています。リヒャルトはナチス・ドイツに追われ、アメリカに逃れました。この脱出劇に着想して作られたのが「カサブランカ」というアメリカ映画です。光子は逃亡する息子を案じつつ1941年8月に67歳でその生涯を閉じました。光子の遺言の一つは「夫であるハインリヒの墓に眠りたい」とういことと「遺体は日本の国旗に包んでほしい」ということでした。一つ目はかないませんでした。二つ目の願いがかなったのは定かではありません。



参考文献
 河出文庫「クーデンホーフ光子の手記」シュミット村木眞寿美 翻訳
 オークラ出版「世界を愛した日本」『”EU生みの親”の生みの親』但馬オサム
参考サイト
 WikiPedia「クーデンホーフ光子」「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー」

添付画像
 クーデンホーフ光子(PD)

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