格式高かった吉原の遊女

外国人が驚いた遊女の地位。




 栃木県にある日光江戸村にいくと花魁道中(おいらんどうちゅう)が見れます。これは遊女が置屋と呼ばれる遊女の待機所から客の待つ揚屋へ向かう道中を練り歩くものです。若いものを先頭に吉原の最高位である太夫格の遊女が妹女郎など大勢を従えてしゃなりしゃなりと練り歩きます。
 吉原は幕府公認の遊郭で、遊女は10年の年季制度でした。こういうと「人身売買」「女性蔑視」「人権侵害」とフェミ系の人は目を釣り上げそうですが、それは西洋の思想から来るものであって、西洋では売春婦は身分は低く卑しい職業、屈辱的な立場に置かれた人と見られましたが、日本ではそのようなものではなく生活手段として市民権を得ており、特に吉原の遊女は格式が高いものでした。ですので、幕末に来日した外国人は日本の売春婦が西洋のそれと異なるのに驚いています。

 ドイツ考古学者ハインリッヒ・シュリーマン(慶応元年(1865年)来日)
「貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の傷み(いたみ)しか感じない。なぜなら売春婦は、日本では、社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものではなく、他の職業とくらべてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段としてみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することも、ごく普通に行われる」

 吉原に奉公に行くと歌や踊りだけでなく、読み書きから俳句、茶道、華道、香道、書道、古典といった高い教養を仕込まれます。吉原の客は大名、旗本、豪商といった人たちですから、教養を備えなければなりませんでした。これだけ教養を身につけていれば妻に迎えるに十分というわけで、身請けしてもらい「いいところの家」に嫁いでいくわけです。これは外国人にとっては信じられない話で、オーストリア外交官のヒューブナーは「嘘八百」としてなかなか信じようとはしなかったといいます。

 イギリスの公使オールコック安政6年(1859年))
「彼女(遊女)たちは消すことのできぬ烙印が押されるようなこともなく、したがって結婚もできるし、そしてまた実際にしばしば結婚するらしい。夫の方では、このような婦人の方が教育があり芸のたしなみもあるというので、普通の婦人と結婚するよりも好ましいわけである」

 フランス海軍士官スエンソン(慶応2年(1866年)来日)
「日本のゲーコは、ほかの国の娼婦とはちがい、自分が堕落しているという意識を持っていないのが長所である。日本人の概念からいえば、ゲーコの仕事はほかの人間と同じくパンを得るための一手段にすぎず、(西洋の)一部の著作家が主張するように尊敬されるべき仕事ではないにしろ、日本人の道徳、いや不道徳観念からいって、少なくとも軽視すべき仕事ではない。子供を養えない貧しい家庭は、金銭を受け取るのと引換に子供たちを茶屋の主人に預けても別に恥じ入ったりするようなことはないし、家にいるより子供たちがいいものを食べられ、いいものを着られると確信している」

 幕末の頃は売春と芸が分かれて専門化したので、スエンソンのいうゲーコ(芸子)は混同していると思われますが、言っていることは日本では売春は不道徳なものではない、ということです。スエンソンもやはり「年季が過ぎればまともな結婚さえ可能」という点を指摘しています。

「寄りたまえ 上がりなんしと新世帯」

 この川柳は元遊女を妻に迎え、まだ遊郭言葉が抜けきらない新婚カップルを詠んだものです。このような川柳が詠まれるほど遊女の結婚は一般的で売春が恥ずべき職業ではなかったということです。

 スイスの外交官エメェ・アンベール(文久3年(1863年)来日)は娘を遊郭に売って餓死から免れようとするしかない貧しい人たちの事情を踏まえても「婦人の自由拘束は、それが自発的奴隷化の外見をとっている場合においても、依然として、あらゆる強制のうちの最も忌まわしい強制」と批判的です。ところがアンベールは山王の大祭で吉原の7人の遊女の行進を目にしています。きらびやかな衣装に身を包んだ遊女は民衆の間にもよく知られており、彼女らが通ると、人々は彼女らの名前を呼びました。アンベールはこの行進行為を「奇知」と表現しており、不可解であったと思われます。

 実は遊女はアイドルであり、ファッションリーダーでもあったのです。吉原の高級妓楼・三浦屋で代々襲名された遊女で「高尾」という太夫は大名や豪商に身請けされ、仙台藩主を袖にした「高尾」や姫路藩主に自分と同じ体重の小判で身請けされた「高尾」がいます。歴代の「高尾」を描いた浮世絵は飛ぶように売れたといいます。
 町娘は遊女や芸者の着物の柄や色をお手本に自分好みに仕立てるという「粋」を楽しみました。小袖の上に着る羽織は男性のスタイルでしたが、深川の芸者が着はじめると町娘の間に流行しました。ヘアスタイルでは島田髷(しまだまげ)や勝山髷が流行しましたが、これは遊女のオリジナルヘアスタイルです。神前結婚式で結われる文金高島田(ぶんきんたかしまだ)は島田髷の派生型です。

 生きるための行為を善とした江戸日本の考え方は本能に則した考え方です。現代では誰でも売春しなくても生きれる豊かな時代なので、西洋思想を抜きにしても売春を否定的に捉えるのは当然かもしれません。しかし、歴史はその時代の価値観に則して見るのが正しい見方です。富めるものから貧しい者へお金がながれ、貧しかったものが卑下されることなく世間並みに結婚もできるという西洋よりも優れた江戸日本のシステムがあったわけです。それに貧しかったものが学と芸を身に付け、芸能活動で一世を風靡したのですから江戸日本人は大変な活力を持っていたといえるでしょう。



参考文献
 双葉文庫「時代小説 江戸辞典」山本眞吾(著)
 講談社学術文庫シュリーマン旅行記」H・シュリーマン(著)/ 石井和子(訳)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(著)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)
 講談社学術文庫「絵で見る幕末日本」エメェ アンベール(著) / 茂森唯士(訳)
 河出書房新社「江戸の庶民の朝から晩まで」歴史の謎を探る会(編)
 双葉社「江戸明治 遠き日の面影」
添付画像
 歌川国貞 吉原の夜四つ亥刻 1818 (PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。