日本嫌いの十八番歴史記述「張作霖爆殺」

コミンテルン説は絶対取り上げない。


 梅田正巳著「近代日本の戦争」の「張作霖爆殺事件」(昭和3年)の記述は日本嫌いの十八番ともいえる記述でしょう。
P100


 関東軍張作霖を爆殺したのは、かつて軍閥同士の戦いで関東軍に援けられ、日本に対して協力的だった張作霖が、満州での権力を固めてゆくうちに自主自立へと方針を転換、たとえば満鉄と競合する鉄道の敷設など、対立する場面も出てきたからです。そこで、満州を日本の支配下におくためには、大ボスである張作霖の存在は邪魔になると見たからでした。

 コミンテルンが出てきませんね。これは関東軍の仕業とはまだ確定しておらず、謎の部分が多いのです。
 
 この頃、満州を支配していた張作霖軍閥はどの様なものだったかは皇帝溥儀の家庭教師だったジョンストン博士の手記から引用してみます。※1


 その頃、皇陵の冒涜以外に、シナ北部では別の重大事件が起こっていた。国民党軍の北京進行が急速に進んでいたのである。張作霖は北京にいて、シナ北部全域を完全に掌握しているように見えたが、彼の強固な地位は単なる外向けの見せかけにすぎなかったのである。張自身の支持者の内側でも、各層で意見の不一致や根本的相違があり、敵に対して強力な共同戦線を張ることができなかった。なるほど張には、シナで最高の装備を持つ軍隊がいたけれども、もし彼がその兵隊を南方へ送って侵略者と対峙させれば、背後から致命的となりかねない攻撃を受けるだろうと恐れていたのである。

 満州の支配者とはいえ、非常に不安定な状態であったことがうかがえます。

 日本政府はどういう態度だったかというと、張作霖を支援して満州における日本の権益を守ろうとしていました。張作霖の悲報にときの田中首相は「我が事終われり」※2と天を仰いで長嘆息したと言われています。

 満鉄に競合する鉄道の敷設などで日本と対立などが発生していますが、政府の方針を無視してまで爆殺までの必要はあったのか?この数年後に米国、上海副領事となったラルフ・タウンゼントは以下のように記しています。
「1928年、張作霖が暗殺され、遺産は無能な放蕩息子の張学良に転がり込んだ。父の張作霖は慎重だった。日本に好意を持っていたわけではないが、かといって公然と敵対行動にでることはなかった。日本人を脅かすこともあったが、政情定まらぬ国では普通にありえる程度のことで、日本が行動するほどのことではなかった」

 ですから、関東軍張作霖を暗殺するというのは不可解な出来事なのです。よく事件の首謀者である河本大佐の供述が使われますが、これは戦後に中共が作成したもので随分と信憑性が薄いものです。河本大佐の手記とされるものも自分で書いたものではなく、河本大佐の死後に義弟が口述をもとに書いたもので、この義弟は長く中共強制収容所にいた人でマインドコントロールされている可能性があります。これも信憑性が薄い。田中内閣の鉄道大臣だった小川平吉の手記によると現地の事後処理の相談を受けていて、「国民党便衣隊員の仕業に見せかけるために用意していたシナ人に逃げられた。この用意したシナ人を逃がすための費用が必要だ」というやりとりが出てきます。※3 しかし、満鉄の山本総裁は事件に対して「何をするんだ」と激怒しています。

 これらを考えると、なんらかの陰謀が関東軍や満鉄、日本政府に入り込んでいたと考えるのが自然でしょう。これが最近よく言われるコミンテルン説です。ですから、この事件は謎が多く、日本軍の仕業と断定はできないのです。

ユン・チアン「マオ」
「「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」

 このマオの記述は2000年にモスクワで出版されたコルパキヂとブロホロフの共著「GRU帝国第一巻」がもとになっており、GRUとはソ連軍諜報本部情報総局のことで、これによると露骨な反ソ姿勢をとっていた張作霖をターゲットにした理由と書かれています。※3

 さらに、張作霖の息子が父が爆殺される7年も前に国民党に極秘入党していた事実も重要でありましょう。※3 この張学良は後に西安事件を起こして国共合作を援けています。




※1 祥伝社黄金文庫紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著 より
※2 展転社大東亜戦争への道」中村 粲著 より
※3 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子編 より

添付
 張作霖が乗車していた列車(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。