アッツ玉砕

日本軍初の玉砕、アッツ島


 昭和18年(1943年)5月12日、米軍はアッツ島に上陸します。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊がこれを迎え撃ちました。

 アッツ島は米領で前年のミッドウエー攻略作戦と並行して、日本軍が占領しました。これは米ソを遮断し、米がシベリアに航空基地を作ることを防ぐ目的、アリューシャンから直接日本本土を空爆することを防ぐ目的、北太平洋中部太平洋の哨戒を容易にする目的などがあります。アッツ島は北方軍の指揮下にあり、司令官は樋口季一郎中将です。当初、海軍が米軍はキスカに来るとして兵力をキスカに集中させていましたが、樋口中将は米軍はアッツに来ると読んでおり、海軍へ執拗な進言を行い、なんとかアッツにも兵力、物資の輸送が行われるようになりました。しかし、それでもアッツ守備隊はわずか2,650名です。米軍は11,000の上陸軍です。
 
 米軍が上陸してくるとアッツ守備隊は水際作戦で米軍を迎え撃ちます。3日で島を占領できると見込んでいた米軍は鬼気迫る日本軍の攻撃に驚きと恐怖を覚えたといいます。米上陸師団のブラウン師団長はアラスカの第四連隊の増援を要請しました。しかし、「敵は無勢、味方は多勢なのに救援を頼むとは何事か」とキンケイド提督は激怒し、即日ブラウン少将を解任し、ランドラム少将と交代させるということが起こっています。
 
 米軍の上陸直後、北方軍司令官、樋口中将はキスカ島の峯木少将の進言を受け入れ、逆上陸作戦を計画し、4,700の兵をアッツに上陸させ、米軍を挟撃、殲滅する準備に取り掛かりました。この報にアッツ島守備隊の士気はあがり持久戦体制がとられます。
 ところが、大本営は突然、アッツ増援を中止します。海軍に余力がないというのが理由です。樋口中将は激怒しましたが、どうにもなりません。そのかわりキスカ撤退の条件を出したといいます。大本営キスカ撤退は議論されており、樋口中将の条件は受け入れられました。5月23日、樋口中将はアッツに事実上の玉砕命令を発します。そしてアッツ守備隊・山崎隊長は「国家国軍の苦しき実情は了承した。われらは最後まで善戦奮闘、武士道の精華を発揮するであろう」という意味の返電を打ちました。
 5月24日、駆逐艦二隻をアッツ島へ強硬補給させることになりますが、海軍は船を出して折らず、樋口中将は29日にそれを知り強硬に抗議しましたが、時遅くその日の夜に山崎隊の最後の電報を手にしました。

 山崎隊長は残存兵を集め、29日500名の兵で最後の突撃を敢行しました。30日夜、千島列島の通信隊は敵の通信傍受によって山崎隊長以下の将兵が敵を大混乱に陥れたことを確認しました。
 
 アッツ島攻略米軍第一線中隊長 ハーバード・ロング中尉
「自分は自動小銃を小脇にかかえて島の一角にたった。霧がたれこめ、百メートル以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃と思ってすかしてみると、300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸を持っている。(中略)どの兵隊もボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに、皆どこかを負傷しているいのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいてくる、我々アメリカ兵は身の毛をよだてた」
 
 アッツ玉砕は日本軍最初の玉砕となりました。ソ連はこの玉砕を日本武士道の精枠として、小学校の教材として採用したこともあったそうです。




参考文献
 「指揮官の決断」早坂隆著
 「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳著
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
参考サイト
 WikiPediaアッツ島の戦い
 
添付画像
 アッツ島日本兵の遺体。29日の突撃後の写真と思われる。(PD)

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三船 浩 アッツ島血戦勇士顕彰国民歌 (実写映像付き)
http://www.youtube.com/watch?v=YLXnJfwYmA8