社会主義の決起 二・二六事件

 昭和11年(1936年)2月26日、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデターを起そうとしました。これらの陸軍将校らの思想は実は社会主義だったんですね。昭和6年(1931年)3月の「全日本愛国者共同闘争協議会」では次のように決議されています。

一、われらは亡国政治を覆滅し、天皇親政の実現を期す。

一、われらは産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。

 昭和大恐慌で農村部は打撃を受け、一家を救うために農家の娘は身売りせざるを得ないようなことがおき、農家出身の兵士たちは昭和モダンの繁栄を横目に義憤にかられていました。そして兵士たちは巨利を得ている財閥や目先しか見ない政治家に向けられ「階級対立」という概念が用いられたようです。この頃、世界では米国の保護貿易ホーリー・ストーム法)やブロック経済といった統制経済による社会主義に流れていました。日本も例外なく流れていったといえます。皇道派と対立していた統制派も社会主義であり、2・26事件後、合法的に社会主義体制を推進していったわけです。

 さて、2・26事件は内閣の機能が麻痺し、内大臣侍従長が襲撃されたため、昭和天皇がご自身で情報を集め判断しなければならないという立憲君主制の枠をはみ出る異例の事態となりました。昭和天皇は事件を知り、「とうとうやったか」「全く私の不徳のいたすところだ」とおっしゃり、翌27日には「自分はこれから鎮撫に出かけるから直ちに乗馬の用意をせよ」と仰せになり、側近は驚愕し、大慌てでとめています。

「朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しい行為なり」

 反乱軍は逆賊となり有名な「兵ニ告グ」というビラが撒かれます。29日には下士官兵(大多数は命令で動いていただけ)は原隊に戻り、首謀者は自決するものが出て、残りの将校は逮捕されまました。

 この後、内閣改造において軍部は統制経済強化を打ち出します。昭和天皇は軍部が国家経済、富の配分にまでクチを挟むことに難色を示しました。そして次の首相として近衛文麿に白羽の矢が立ちますが、彼は皇道派寄りだったため辞退します。国民の間には失望感が漂い、元老(西園寺)の衰えが感じられるようになりました。そして誕生したのは広田弘毅内閣です。



参考文献
 「渡部昇一の昭和史」渡部昇一
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
 「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀編

添付写真
 二・二六事件のときの山王ホテル前の兵士(PD)


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