満州王朝から見た満州建国への道

満州王朝は独自の意思で歩んでいった。その先に日本がいた。


 1931年(昭和6年)に上海の米国の副領事として支那にわたったラルフ・タウンゼントは支那の混乱ぶりを以下のように書いています。
「これは世界史上類例のないことである。血の海に膝までつかり、村といわず町といわずことごとく絞られ荒らされ、死者、拷問、餓死者が毎年数百万もでるのに、何万という大学での学士さまは手をこまねいているだけで何もしない国。こういう国は世界のどこにもない。学士様の誰一人として、信頼の置ける指導者を探そうと考えもしないというのも他に例がない。
 指導者はすべて己のことしか頭にない。世のため人のため尽くそうにも、支持者がいない。何かをやろうとすると、いつ後ろから刺されるかわかったものじゃない」「どこの世界も腐敗、堕落はあるが、支那のような100%腐敗、堕落している国はない」

 
 支那は1911年の辛亥革命清朝皇帝が退位し、共和国ができましたが、群雄割拠状態で混乱が続いていました。民衆には満州王朝復活の声があがってきていました。
 
 1919年9月9日付ノース・チャイナ・デイリー・メール紙
「共和国の記録には、楽しいことが何もない。今日は支那の北と南が一触即発の状態にある。これから導き出される結論はただひとつである。支那で共和主義を試みたものの、ふたを開けてみれば能無しだとわかったということだ」
君主制を支持するとても強力な結社があり、共和政体の政府に決して満足することはなかったけれども、はっきりとした理由があって、ここ数年間は沈黙を保っていることを忘れてはならない」
「前皇帝の復辟(ふくへき)を望み、ひそかに支持する人たちが強く主張するのは、共和制主義者がこの国を破壊しているということだ」

 
 清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師をしていたR・F・ジョンストン氏は1919年7月20日に個人的な情報筋から次のような報告を受けたと著書に記しています。

張作霖君主制を復古しようと企んでいるが、その意図は翌年の秋に奉天で若い皇帝を帝位につかせ、同時に日本の保護下で満州を独立国として宣言することだ」

 1922年3月18日付 ノース・チャイナ・ヘラルド紙
「もし張作霖がライバルの呉佩孚(ごはいふ)の勢力との予想される争いで敗れるようなことがあれば、張の国家の政治活動で果たす役割は終わることになるだろうし、そうなれば唯一の逃げ道は、日本の保護下で満州を独立させることしかない」
 
 果てしない混乱の支那で民衆は満州王朝の復活を望み、清朝の聖地に駐留していた日本の関東軍に目がいくのは自然でしょう。R・F・ジョンストン氏はさらに以下を述べています。
「日本が満州の地で二度も戦争をして(日清、日露戦争のこと)獲得した権益を支那の侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信する者は大勢いた。日本と中華民国が抗争すれば、自分たちが待ち望む絶好の機会が訪れるだろうと君主制主義者は考えていた」

 満州事変は予知されていますね。さらにジョンストン氏は日本との提携についても述べています。
「外国の強国と同盟を結ぶのは支那への裏切りだと叱責する人に対しては、君主制主義者は次のように答えることができよう。支那は既に満州人を異民族、すなわち『夷族』であると宣言し、その根拠にもとづいて、満州人を王座から追放したではないか、と。異民族とその家族は、支那にいかなる忠誠も誓う必要はないのである」

 つまり、支那とはもう関係がないから同盟者は自分で選ぶということです。これも当時の状況として非常に重要なことでしょう。支那満州は別なんですね。支那と決裂した満州王朝は、ときが来るのをじっくり待って、やがてやってきた好機、満州事変を利用し、満州王朝を復権させた、それが満州建国であり、満州王朝が関東軍を利用したと言えるでしょう。



参考文献
 「暗黒大陸中国の真実」ラルフ・タウンゼント著
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 
添付画像
 1900年ごろの北京 Author Salzmann, E.v.
 
広島ブログ クリックで応援お願いします。

ラストエンペラー

満州王朝の視点でも歴史を見る必要がある。


 映画になったのでご存知の人も多いでしょう。愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)清朝第12代にして最後の皇帝で初代満州帝国皇帝です。清朝皇帝についたのは1908年10月です。わずか3歳だったので、摂政がおかれました。
 1911辛亥革命が起こります。孫文が臨時大総統となり中華民国臨時政府が誕生します。清朝袁世凱(えんせいがい)を総理大臣に任命し、革命派を討伐させますが、孫文清帝を退位させたら大総統を袁世凱に譲ると密約したため、皇族に優待条件をつけて丸め込んで、皇帝を退位させました。皇帝は北京の紫禁城にはそのまま住み続けてよく、共和国側から維持する予算が支給されることになりました。

 溥儀は紫禁城の中で成長していきます。家庭教師が数人付きますが、その中の一人、英国人であるR・F・ジョンストン氏は溥儀の性格を以下のように述べています。
 
「皇帝は明敏で聡明な知能の持ち主であったが、性格にはまじめな面と軽薄な面とがあった。最初のうちは軽率な面が露呈するのは若さゆえの無責任さが原因であり、成長すれば、そのような子供じみた側面は捨て去るだろうと思っていた。けれども、皇帝の性質を見ていると、消え去ることのない何か分裂したものであるようで、皇帝の中で二つの人格が互いに争っているように思えるときがある」

 後に日本の関東軍板垣征四郎は溥儀と会ったときの印象をこう記しています。
「溥儀、聡明なれど卑しき執着あり」

 この二面性はその後の東京裁判での検事側さえ呆れてしまった証言にも表れています。
 
 溥儀が満州国皇帝になるまで一瞬だけ帝位に復帰したことがあります。袁世凱の死後、1917年に張勲という皇帝を慕う将軍がクーデターを起こし、皇帝を復辟(ふくへき)させています。しかし、直ぐに共和国側に鎮圧されてしまいました。
 
 この後、共和国の政治に民衆は失望していきます。
1919年6月23日ノース・チャイナ・デイリーニュース
増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満州朝廷の復帰を望むようになっている。満州朝廷も悪かったけれども、共和国はその10倍も悪いと人々は思っている」

1921年曙光(革命はジャーナル誌)
「農業人口10人のうち、8、9人までは読み書きできず、まるで鹿やブタと同様に愚かしいというか嘆かわしい状況である。農民たちは自由が何を意味するのかを知らず、参政権や政府がどのような概念なのかも知らない。(中略)『宣統皇帝陛下(溥儀のこと)はお達者か』そして何度も何度もこのような願いやら不満を聞かされるのだ。『こんな不作で、俺たちは一体どうなるのか。俺たちはいいことなんぞ、一つも起こらない。本物の龍が、天子様がもう一度お出ましにならねばな』(中略) このような無骨な田舎者たちは張勲が帝政復古しなければ満足にしないだろう」

 こうした帝政復活を望む声の中、溥儀は共和国政府から年金をもらって生きていることに屈辱を覚えていきます。これらの歴史を追っていると満州国関東軍によって突然出現したというより、こうした溥儀の思いと民衆の満州王朝復活を望む流れも受けていたことがわかります。



参考文献
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三著
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 
添付画像
 満州国皇帝時代の溥儀(PD)

満州国臨時政府
 http://www.manchukuo.org/index31.htm
 
広島ブログ クリックで応援お願いします。

オトポール事件

日本のシンドラー樋口


1936年(昭和11年)
   11月 日独防共協定
1937年(昭和12年)
   12月 第1回極東ユダヤ人大会 樋口、安江が出席
1938年(昭和13年)
    1月 関東軍「現下ニ於ケル対猶太(ユダヤ)民族施策要領」を策定
    3月 オトポール事件
   11月 ドイツで反ユダヤ主義暴動(水晶の夜)
   12月 五相会議 ユダヤ人対策要綱
1940年(昭和15年)
    7月 25日、杉原千畝 命のビザ発給を決断
       基本国策要領 「八紘一宇」が登場 26日閣議決定

 昭和13年(1938年)3月8日、満州西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールにドイツで迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せました。ソ連ユダヤ難民の受け入れを拒否していたので、難民は満州国への入国を希望します。しかし、満州国は日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否します。このときのハルビン特務機関長は樋口季一郎(ひぐち きいちろう)少将です。樋口はユダヤ協会と交流があり、極東ユダヤ人協会の会長、アブラハム・カウフマンと親しくしていました。カウフマンは樋口に難民の救済を訴えました。樋口は「人道上の問題」としてユダヤ難民の受け入れを独断で決め満州鉄道総裁の松岡洋右(後の外相)に特別列車の要請をします。現場では樋口の部下である安江仙弘が奔走しました。
 3月12日、ハルビン駅にユダヤの人々が到着します。そしてユダヤ難民たちは地元の商工クラブや学校へと収容され、そこで炊き出しを受けます。カウフマンの息子であるテオドル・カウフマンはこのときの光景を現場で見て、戦後、イスラエルで出版した著作の中で、樋口についてこう書き記しています。
 
「樋口は世界でもっとも公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考える」
 
 文頭の年表からすると、有名な杉原千畝の命のビザの話は、このオトポール事件の2年以上も後のことです。さらに日本はドイツの反ユダヤ暴動をうけて五相会議でユダヤ人を差別しないことを閣議決定していますが、オトポール事件はそれよりも前の出来事です。このときの樋口の決断は大変難しかったと思われます。樋口の娘、智恵子さん(当時4歳)は父親が特務機関に出勤するとき、いつもは運転手さんの運転で一緒に乗って、そのまま帰ってきていましたが、この事件のとき母親から「今日は行ってはダメ」「お父様がクビになる。日本に帰ることになるかもしれない」と荷物整理していたと覚えていると述べています。
 
 オトポールのユダヤ難民は2万人が押し寄せたという話がありますが、この数字は根拠がなく、この事件をきっかけにユダヤ難民救済のヒグチ・ルートが開通し、昭和16年ぐらいまでは有効であったといいます。難民の列車の手配を行った東亜旅行社(現・JTB)によると当初オトポールに押し寄せた難民は100〜200人。その後、続々とヒグチ・ルート目指してユダヤ難民がやってきて、昭和14年に551名、昭和15年に3,574名となっており、昭和16年の数は不明ですが、大体5,000人ぐらいではないでしょうか。

 樋口季一郎の独断は当然、問題になりました。ドイツからはヒトラーの腹心であるリッペントロップ独外相から、オットー駐日大使を通じて抗議が行われました。外務省、陸軍省でも樋口の独断を問題視する声が出て、ドイツからの抗議書は関東軍司令部へまわされます。樋口は関東軍指令植田謙吉大将に所信をしたためた文書を送ります。
 
「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」

 ついで樋口は関東軍司令部に出頭し、東條英機参謀長と会います。
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」

 東条英機は筋さえ通れば話のわかる人だったと樋口は回想しています。東條英機はドイツの抗議にたいして「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴しました。
 
 樋口季一郎と安江仙弘はユダヤ民族に貢献した人々の名を刻むゴールデンブックに名を連ねています。ゴールデンブックは献金記録簿兼栄誉をたたえるための仕組みのもので、樋口、安江の献金額は不明となっており、名前は極東ユダヤ人協会が記入したようです。東條英機ユダヤ人との交流がなかったため、記載されなかったと言われています。
 戦後の東京裁判ではソ連から樋口を戦犯として引き渡すよう要求がありました。しかし、これにユダヤ人たちが強硬に抗議し、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会がソ連の要求を拒否するよう米国防総省に強く訴えました。この動きが功を奏し樋口に対する戦犯引渡し要求は立ち消えになりました。もし東條英機の名がゴールデンブックに記載されていれば東京裁判はまったく様相が異なったものになっていたでしょう。

※日本は満州国に対して内面指導権を保持していた。




参考文献
 「指揮官の決断」早坂隆著
 「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著
参考サイト
 WikiPedia「基本国策要綱」「猶太人対策要綱」「水晶の夜」「杉原千畝」「日独防共協定」「河豚計画」

添付画像
 樋口季一郎(PD)
 
広島ブログ クリックで応援お願いします。



オポトール事件 ユダヤ人を救った日本陸軍軍人
http://www.youtube.com/watch?v=xOLtUtHePAg

オポトール事件と書いてあるがオトポールの間違いと思われる。


徳王の悲劇と内蒙古大虐殺

支那による蒙古人大虐殺があった。


 昭和20年8月15日、日本の降伏により、内蒙古に危機が訪れます。日本の内蒙古駐留軍は武器、弾薬を蒙古軍に提供すると徳王に伝達しましたが、日本軍と蒙古軍の間には距離があり、支那共産党軍が既に分断しており無理な状況でした。徳王は国民政府のもとでの「蒙古高度自治」を求めて重慶に行き、蒋介石に会見しました。しかし、国共内戦で国民党が台湾に撤退すると蒙古自治政府は崩壊します。徳王はモンゴル人民共和国を頼って、ウランバートルに脱出。ところがモンゴル政府は昭和26年(1951年)に徳王を北京に送還し、徳王の長男を日本のスパイの罪名(王侯身分のためという話もある)で処刑したのです。徳王は監獄に入れられ、肝炎を患い昭和38年(1963年)釈放されましたが、昭和41年(1966年)に肝臓ガンで死去しました。

 徳王の悲願が潰えた蒙古には蒙古語がしゃべれない蒙古人、オラーンフーが支那共産党と連合して内蒙古自治区を設立しました。中共イデオロギーによる支配です。ところが昭和41年(1966年)に文化大革命が勃発するとオラーンフーは過去、内人党という外蒙古内蒙古合併を目指していた党で日本に協力したという理由で失脚。そして内蒙古人への弾圧が始まります。

 昭和42年(1967年)から国家の漢族による蒙古人大虐殺が始まります。一方的殺戮であり、内蒙古人は150万人いましたが100万人が逮捕され、死者は5万人と言われています。残虐行為は想像を絶するもので、吊るし上げて拷問したり、舌に針を通したり、素足で火の上を躍らせたり、ペンチで歯を抜くといったものでした。

人民解放軍の劉小隊長
「モンゴル人たちが全員死んでも問題ない。わが国の南方にはたくさん人間がいる。モンゴル人たちの生皮を剥ごう」

 女性に対する強姦や陵辱は日常茶飯で、オラーンフー側近の雲北峰と結婚したモンゴル貴族の奇琳花は7年にわたり暴行を受け、無数の漢人農民に襲撃され、下半身が完全に破壊され歩けなくなりました。また、ボイラー室に閉じ込められ髪の毛が抜け落ち、頭もはれ上がり、子宮も脱落しました。

 かつての日本人は血を流してまで蒙古独立を支持しました。しかし今の日本人は歴史を抹殺され、大物政治家などは「自分は人民解放軍野戦司令官」と名乗ったり、「文化大革命」を絶賛するような始末であり、蒙古、満州親日派少数民族から目を背けてしまっています。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 ワック出版「歴史通」2010.3月『目をおおう凄惨!漢族の内モンゴル虐待』金岡秀郎

添付画像
 蒙古騎兵(PD)

南モンゴル自由連盟党 http://www.lupm.org/japanese/
南モンゴル応援クリルタイ http://smdhyh.blog20.fc2.com/

広島ブログ クリックで応援お願いします。

内蒙古の独立

蒙古も満州支那ではない。


 昭和16年(1941年)8月4日、内蒙古自治邦が成立。内蒙古の事実上の独立が行われました。万里の長城以北の西側は蒙古で現在の東北と呼ばれる地域が満州人の聖地でした。蒙古と満州支那ではありません。

 1911年、清国が滅亡すると蒙古は独立運動を開始します。外蒙古ソ連の介入により独立しますが、内蒙古中華民国の支配を受けます。昭和7年(1932年)満州事変(前年から)が起こると、日本の陸軍士官学校出身のガンジュルジャブらが関東軍に呼応します。満州国が建設されると蒙古の一部が興安省として蒙古遊牧民の保護地区となり、ガンジュルジャブの軍は興安南警備軍となります。

 蒙古の一部は満州国に組み込まれましたが、昭和8年(1933年)、チンギス・ハーンの末裔である徳王は百霊廟会議を開催し、国民政府に内蒙古自治政府の設立を要求し、蒋介石はこれを承認。関東軍は徳王と接触し、徳王は対日連携を決定し、満州国へ行き、関東軍首脳から蒙古建国への軍事・経済援助の約束を取り付けます。

 昭和12年(1937年)支那事変が勃発すると東条英機率いるチャハル派兵団は蒙疆地域を軍事占領します。徳王は昭和天皇に拝謁し、陸軍大臣板垣征四郎に蒙古の独立建国を訴え、昭和14年(1939年)に蒙古連合自治政府が成立し、昭和16年(1941年)に蒙古自治邦の成立を宣言します。

 以前、ノモンハン事件について述べたとき、外蒙古との関係も少し書きましたが、内蒙古とも日本は諸関係あり、独立を支援しています。当時の状況から考えると日本は「反共」と満州国の国防観点での国益に沿った施策といえますが、これらも抹殺された歴史の一つといえます。徳王は戦後、中共に捕らえられ周恩来の要請により内蒙古独立運動日本帝国主義の扇動と自伝に書かされました。


参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 ワック出版「歴史通」2010.3月『目をおおう凄惨!漢族の内モンゴル虐待』金岡秀郎
参考サイト
 WikiPedia「蒙古聯合自治政府

添付画像
 徳王(左)(PD)
 
広島ブログ クリックで応援お願いします。

満州事変は侵略ではない

満州事変は自警行為。


 満州事変で日本は支那を侵略した・・・大方の人はこんな歴史を信じてしまっています。しかし、なぜ事変が勃発したかはしらないし、満州支那が別の国であることも知らないでしょう。満州事変は関東軍による自警行為の発動であり、満州国満州の正当な所有者である満州族清朝の復活です。
 
 「侵略」の英語はAggressionです。プログレッシブ英和中辞典によると「 1 (…への)侵略行為, 侵犯, 攻撃;(権利などに対する)侵害*1  a war of aggression 侵略戦争」となっています。国士舘大学講師の倉山満氏によると、これは誤訳であり、本来の意味は「挑発もされていないのに先に手を出す行為」であり、重要なのは「挑発の有無」と述べています。どうも東京裁判のときに一般的な「侵略」を当ててしまったためのようです。これは重要な話でしょう。
 
 清朝崩壊後、満州支那軍閥が跋扈(ばっこ)し、治安維持能力が低く、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされ、「日支懸案370件」というほどでした。さらに条約違反によって満州の日本の権益が損なわれ、鉱山の爆破のほか、南満州鉄道だけみても1928年から31年の間、運行妨害171件、列車強盗189件、鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件も発生しています。日本の権益は日露戦争後に条約によって得た正当な権益です。それに対して軍閥は挑発行為を繰り返してきたのです。慣習国際法という概念は当時にもあり、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされれば主権者たる満州軍閥は日本人を保護しなければなりませんが、それができないなら主権国家と呼ぶべきではないし、日本の関東軍は自警行為を発動しても法的にはなんら問題はありません。
 
 1922年に中華民国に関する九カ国条約が結ばれており、中華民国の主権を尊重し、中華民国に独立と自助努力の機会を供与する条約であることを明記しています。これで満州国建国は違法だという人もいるようですが、満州中華民国のものではありません。条約締結時にブリアン議長から「What's China?」と疑問が提示されましたが、曖昧なまま条約に至っています。歴史的経緯からすると満州満州族のものであり、支那(China)は漢民族のもので、万里の長城に境界があり、現地の人々の意識もそのような意識でした。蒋介石の北伐は万里の長城が終点です。また中華民国は紛争に対する中立義務がありましたが、それを破って南京、漢口で各国大使館に対して殺人・略奪行為を行っています。もはや条約遵守に値しません。
 
 1928年にパリ不戦条約が結ばれますが、この内容は現在のGHQ憲法九条の内容とウリ二つで、国際紛争解決の為に戦争に訴えない」「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」「あらゆる紛争または紛議の解決は平和的手段によること」というものです。結局米国が自衛戦争は禁止されていないという解釈を打ち出し、ここで早くも空文化してしまい、先にあげた「A war of aggression 挑発もされていもいないのに先に手を出す戦争」侵略戦争として否定されるが、自衛戦争は容認するとしています。また英米「自国の利益に関わることで軍事力を行使してもそれは侵略ではない」としています。しかも各国に自己解釈権まで与えられています。
 
 これらのことを見ると1931年に関東軍の鉄道爆破によって満州事変が勃発しますが、合法的な自衛権の発動であり、その後の満州国満州族の皇帝が即位し、各軍閥が従い、関東軍により治安が維持できるようになったということで、侵略でも違法でも何でもありません。



参考文献
 「歴史通」2010.3『国際法違反だと言われたら』倉山満
 「かへるうぶすな」南出喜久治
 「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一

関連記事
 満州建国 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21636144.html
 満州事変 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21573096.html
 万宝山事件と中村大尉殺害事件 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21555060.html
 満州の日本の権益を否定する国民党 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21536066.html

添付写真
 1931年9月柳条湖事件の現場を日本側が調べている(PD)
 
広島ブログ クリックで応援お願いします。


*1:on, upon ...

ひん曲がった日本刀



 小学生の頃だったと思いますが「ひん曲がった日本刀」というのを読まされた記憶があります。それを思い出して探したところ草土文化より「ぼくもわたしも梅の花」という本の中に収録されていました。松山善次郎という人が憲兵となり満州へ赴任したときの話を来栖良夫(共産主義者と思われる)という小説家が聞き手になり書いたものです。
 話の要約は満州事変後に満州に赴任した松山憲兵は匪賊らと戦うのですが、このときの抗日の英雄が謝文東です。日本軍は匪賊を捕らえて取調べます。憲兵分隊長が処刑を命じると日本刀で首を切るのです。松山憲兵は「やれ」といわれたとき、震え上がりましたが、そのうち慣れてきます。そして日本刀はいつの間にかひん曲がってしまいました。終戦後、松山憲兵は懲役20年の刑(BC級戦犯)でしたが6年で出してもらった、というものです。
 
 この話を小学生が読むのですから、日本は残酷で悪いことを大陸でやったのだな、と思ったものです。何も予備知識もなく、斬られた人、匪賊がどういうことをしたかも知らず、どんな時代背景だったか知らないわけですから、日本人として一方的贖罪意識を植え込まれたわけです。本の意図は戦争の悲惨さを伝えたかったかもしれませんが、当時はそのように考えた記憶はありません。今から考えると命の大切さなどは自然にわかろうものですし、誰でも平和がいいに決まっています。
 
 この話に出てくる匪賊というのは、ゲリラ(主に共産ゲリラ)であって、政治的思想で日本軍や満州国軍を襲撃するだけでなく、民間を襲い虐殺、強奪する人たちです。満州事変前から満州は非常に治安が悪く、馬賊、匪賊が多くおり、最大軍閥の張学良軍も夜には武器をもって民間を襲い、強盗・強姦を繰り返していました。満州事変により満州国が建国すると当初数十万いた馬賊、匪賊は、日本軍の掃討によって数万まで減少し、満州の治安は回復していきました。満州はパラダイスに変わったのです。この頃の時代背景と馬賊、匪賊がやってきたこと、民衆はどうなったか。また、ゲリラというのは法的にはなんら保護されないということを何も教えず、「憲兵として抗日ゲリラの首を切った。日本刀がひんまがった」という部分だけ教えるというのはいかがなものでしょうか。
 
 当時、大陸を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアム
満州とは日本人が出かけていって貪り食った。罪を犯した国だとごく普通の人たちは信じているだろう。日本がそこに行ったのは確かだ。しかしもし諸君が満州へ行けば − 満州国 − 日本はサンタクロースの役をこれまで演じていること、満州人が断然幸福であることを発見するだろう。彼らの古いご主人、ロシアと支那はまあ残酷な親方で、ひどく苦しめられたいたのだ。平和と安全、政府とビジネスの安定、鉄道の建設、都市の建設、病院や学校をもたらしたのは日本だった」

 パラダイス満州は1915年は約2000万人の人が住んでいましたが、1938年(昭和13年)には3900万人、1941年(昭和16年)には4300万人、になりました。恐ろしいところに人が集まったりしません。



参考文献
 「ぼくもわたしも梅の花日本児童文学者協会・日本子どもを守る会編
 「騙しの交渉術」杉山徹宗著
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著

添付画像
 安東市街(現在の丹東) 国書刊行会「望郷 満洲」より。(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。