乞食がいない国、江戸日本

江戸日本には乞食がいなかった?




 旅行家 イザベラ・バード 明治11年(1878年)来日
「上陸してつぎに私が感心したのは、浮浪者が一人もいないこと、そしてとおりで見かける小柄で、みにくくて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべき何らかの自分の仕事というものがあったことです」

 イザベラ・バードが驚いたのは日本に乞食がいない、ということです。いないわけはないのですが、西洋やその他の地域に比べると少なかったということでしょう。当時、日本では自分の作ったものを自分の家の前で売った場合は「乞食」の仲間でした。芝居でも河原乞食といって役者は「乞食」と見られていました。外国人は仕事をしていれば「乞食」とみなしませんでしたから、定義も違ったようです。現在の日本での「乞食」の定義は西洋の定義に近くなっています。

 フランス海軍士官スエンソン 慶応2年(1866年)来日
「あるいはまた悪漢、と乞食の中間の連中、門から門へと訪ね歩き、呪いのように聞こえる祈りを唱え、鐘を鳴らして家の中の住人の注意をひき、底なしの袋にお布施をたっぷりもらうまではその場を離れるつもりのないことを告げる。頭には幅の狭い編笠をまぶっているので顔を見分けることができないが、態度はいたって傲慢、お布施の受け取り方も極めて横暴で、お布施を人間味あふれた恵みではなく、未納の年貢の取立てか何かのように思っているらしい」

 托鉢(たくはつ)という僧侶の修行だと思いますが、これは乞食と見ていたようです。

 イギリスの書記官オリファントが母親に宛てた手紙 安政5年(1858年)来日
「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感の持てる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」

 イギリスの公使、オールコック 安政6年(1859年)来日
「われわれは二つの川を渡り、明らかに乞食と思われる道で死んでいる男のそばをとおりすぎた。いかにまれだとは言え、貧困は存在していて人が公道上で死ぬのである。 − 少なくともこの一例は、これまでにだれかが日本には乞食はいないといったり書いたりしてきたにもかかわらず、その日本においてさえもこのようなことがあるとうことを示しているように思われた。たしかに、乞食はいる。首都の中やその周辺にはかなり多数いる。とはいえ、かれらは、隣国の中国におけるように無数にいるとか、餓死線上にあるのをよく見かけるというような状態にはまだまだほど遠い」

 やはり乞食はいることはいたのですが、多数いるわけではなかったことがわかります。

 スイス領事リンダウ 文久3年(1863年)来日
「一般的に行って日本には貧民はほとんどいない。物質的生活にはほとんど金がかからないので、物乞いすらまさに悩むべき立場にないのである。・・・路上や大通りで物乞いに出会うことは滅多にない。ほとんどいつも寺院の周りに屯しているのが見られる」

 乞食は多数はおらず、寺院や橋に固まっていたようです。ですから乞食が町や農村を徘徊する光景は見られなかったわけです。

 江戸時代は家族や親族で支えあっていましたし、農村では相互扶助が行われました。町でも本人に働く気さえあれば、失業することは滅多にありませんでした。長屋でブラブラしていると、親代わりの大家さんがほってはおきません。いろんなツテを頼って仕事を見つけてきてくれたのです。現在の職安のような口入れ屋もたくさんあり、さまざまな仕事を紹介してくれました。また江戸時代は職業が細分化されており、行商ひとつにとってもお茶を売る人、筍を売る人、きゅうりを売る人、カツオを売る人などなどと細かく分かれていました。商売を始めようと思ったら奉加帳というものを友人たちが回してくれて、カンパのお金が集まりました。江戸時代は馬車がありませんでした。大八車や牛車も厳しい制限がありました。これは駕籠(かご)かき、馬方、人足、船乗りが失業するから禁止したと言われています。社会構造の急激な変化は避けられていました。このように江戸時代は極めて「乞食」を生み出しにくい構造になっていたのです。

 それで当時の日本人は西洋定義の「乞食」をどう見ていたのでしょう。キリスト教の主教が長崎の寺院の階段にたむろして施しをせがむ乞食を見つけました。ところが主教の知り合いの日本人は施しをしてはならぬといいます。

「日本には貧窮など存在しない。一族とか家族が貧しい者の面倒は見るし、旅先で病み倒れたものは政府が故郷まで送り届ける。だから街頭で乞食をしているものは怠け者か嘘つきなのだ」

 乞食を生み出しにくく、貧者の面倒は誰かが必ず見る社会構造でしたから、それでも乞食をやっているのは怠け者かウソつきと見ていたようです。



参考文献
 講談社学術文庫イザベラ・バード日本紀行」イザベラ・バード(著)/ 時岡敬子(訳)
 平凡社ライブラリー「イザベラバードの『日本奥地紀行』を読む」宮本常一(著)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(著)
 平凡社ライブラリー「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 河出書房出版「江戸の庶民の朝から晩まで」歴史の謎を探る会(編)
 講談社文庫「大江戸リサイクル事情」石川英輔(著)

添付画像
 歌川広重作品 猿若町の夜景 現在の浅草6丁目あたり(PD)

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