原爆投下を事前にどれだけ知り得たか

情報は二線、三線での交叉点を求める式の取り組みをやらないと真偽の判断は難しい。




 鬼塚英昭(著)「昭和天皇は知っていた 原爆の秘密」、古川愛哲(著)「原爆投下は予告されていた」では軍幹部、特に第二総軍の畑俊六元帥以下は原爆が投下されるのを事前に知っていたとし、陰謀論を展開しています。根拠としてサイパン放送による投下予告、B24が撃墜されたときのアメリカ航空兵の「広島は焼け野原になる」という証言、伝単(宣伝ビラ)による投下予告、これらを軍幹部は把握しており、実際に海軍の兵隊が広島を急遽はなれた例をあげています。

 鬼塚英昭氏は真珠湾攻撃の攻撃隊長、淵田美津雄大佐を原爆投下を知っていて広島から逃げた一人としています。

 淵田美津雄自叙伝
「実は、私は8月6日の前日5日まで、広島に滞在していたのであった。用件は、私は海軍総隊の航空参謀で、兼職として、南方総軍参謀でもあったので、広島の第二総軍司令部にはちょくちょく出向していた」
「当時、海軍総隊としては『剣作戦』というのを準備中で、これはマリアナ諸島サイパンテニアン、グアムのB29基地に、陸戦隊を強行着陸させて、亀の甲爆弾と呼んだ特別に工夫された爆弾でB29を一機一機爆破しようとの特攻作戦であったが、これにも陸軍兵力が協力しようとの打ち合わせであった」
「会議は3日ほどで、5日の昼前に終わった。私はやれやれと腰を伸ばしながら、今晩も広島に滞在するつもりで・・・室内電話のベルがなる・・・『航空参謀、広島の用件が済んだら、帰りに大和基地に寄ってもらえないか・・・』」

 淵田大佐は広島での会議が3日続いたあと、大和の海軍総隊の通信施設に呼び出され、急遽、広島を発ったわけですが、鬼塚氏は剣作戦は存在しない、3日間の会議も存在しない、彼は岩国基地へ移ったとしています。しかし、その資料を示していません。ちょっと乱暴な推論です。

 古川愛哲氏は広島逓信病院院長の蜂谷道彦「ヒロシマ日記」を引用しています。海軍の藤原一郎大尉が8月5日に蜂谷氏の家に泊まり、翌朝「朝ろくろく顔も洗わず駅へ走ったことを思い出した」とあるところに注目しています。そして原爆投下後、藤原大尉が蜂谷院長を見舞いにきて「まさか原子爆弾ができとろうとは思わなんだ」と語っています。これも怪しいといえば怪しいと言えますが、岩国の学校へ行ったといいますから、朝の8時か9時頃めがけて行くわけで、時間と距離からして急いで出発しても不思議はありません。

 しかし、ふと思うに、東日本大震災のときエレニン彗星の噂があったのをご存知でしょうか。彗星と太陽と地球が一直線に並んだとき、地球のどこかで大震災が起こるというものです。東日本大震災の日はこの日でした。その前もチリだったかスマトラだったかピタリと当たっていました。このとき次に一直線になる日が示されており、「その日は念のため会社を休むか」と思ったものです。未知のものについては警戒はしますが、現実感がしません。原爆についても同じで、「もしや念のため」という認識を持つ人がいても不思議はありません。

 サイパン放送(ボイス・オブ・アメリカ)は8月5日(アメリカ時間)に原爆投下を予告しましたが、第二総軍では大掛かりな無線傍受を行っていました。敵の放送は相手を混乱させるためのプロパガンダが多く含まれていますから注意が必要です。原爆投下直後、双葉山の第二総軍の作戦主任参謀の橋本正勝は、情報参謀の大屋角造に「大屋さん、爆痕がない。いったいこれは何だろう」と聞いています。大屋参謀は「そういえばこの間から妙な新兵器のことを言った海外放送があったような気がする。それかもしれん」と答えています。情報は入っていました。それはプロパガンダかの区別のつきにくい情報です。原子爆弾の知識は日本も開発していましたから、軍関係者はいくらかは知識を持っていたはずです。しかし、威力に対して実感はありません。日本の科学者は第二次世界大戦中には開発は困難とみていました。大屋参謀は「もしや原子爆弾?」と思ったかもしれません。サイパン放送の情報を聞いて投下前から「もしや」と思っていたのか、投下後に思い出して「もしや」と思ったのかはわかりません。
 原子爆弾の威力がわかり、報道が解禁されると新潟市で大々的な疎開がおこりました。新潟が爆撃禁止都市であったという情報と原子爆弾の威力の情報が実感的なものとして繋がったわけです。原子爆弾は未知のものではなくなったわけです。

 大本営情報部参謀の堀栄三は本土決戦の際にいつごろどこに米軍が上陸するかピタリと当て「マッカーサー参謀」と呼ばれました。彼は次のように述べています。

「よく戦後の戦史研究家で、あのときこんな情報があったのに、どうしてこれを採用しなかったか、と批評する人がいる。しかし、情報は二線、三線での交叉点を求める式の取り組みをやらないと真偽の判断は難しい」

 後世の歴史家はよくこの言葉を噛み締めるべきでしょう。後からならなんとでも言えます。私は鬼塚英昭氏と古川愛哲氏の著書を悪書として批判するつもりはありません。仮説を立て推論するのはいいことで、両氏とも実によく取材し、調べておられます。随分役に立ちます。ただ売らんがためにオーバに書いたり、証拠資料もないのに断定調を使うのは極力さけたほうが良いでしょう。読者には未熟な方がいます。ときどき陰謀論をネットで書き込み回る迷惑な人がおり、未熟な方が感化されたと思われます。



参考文献
 成甲書房「昭和天皇は知っていた 原爆の秘密」鬼塚英昭(著)
 講談社文庫「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」中田整一(編/解説)
 講談社「原爆投下は予告されていた」古川愛哲(著)
 文春文庫「大本営参謀の情報戦記」堀栄三(著)
参考サイト
 WikiPedia「日本への原子爆弾投下」

添付画像
 原爆ドーム(PD)

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