熱闘!おじさん部隊 〜 ガダルカナル戦

おじさんはがんばった!


 昭和17年(1942年)8月から始まったガダルカナル戦は日本軍の補給が思うようにいかず、大量の餓死者と病死者を出し、撤退することになりました。12月30日の御前で決裁が行われました。

 ガダルカナルを撤退するにあたっては殿(しんがり)をつとめる部隊がラバウルで新たに編成されました。この部隊を最前線へ突出させ、その間にガダルカナルの部隊を駆逐艦に収容するというものです。殿部隊は生きて帰ることはまず無理です。「決死隊」と呼ばれました。

 今村方面司令官
「在ラバウルの精鋭一大隊約千名を送り」

 この大隊の矢野大隊長武漢や南寧で活躍した歴戦の士でしたが、兵は三十歳前後の未教育補充兵で実弾射撃の経験もなく、訓練も不十分の「おじさん」部隊でした。

 撤収作戦は敵に知られると追撃され大損害を受けるので味方にも知らされませんでした。「おじさん部隊」にも知らされていません。ですから、ガダルカナルへ出発のとき、方面軍司令官の今村大将ほか、金モールをつけた陸海軍の高官がズラリと並んでの見送りだったので、兵たちは驚いたといいます。また駆逐艦に乗船しても出てくる食事が豪華なこと。おじさん部隊の松本准尉は「これは何かある」「太らせておいて、ぎゅっと締められるのではないか」と勘ぐりますが、まさか「決死隊」だとは思わなかった、と述べています。

 昭和18年1月14日、「おじさん部隊」は上陸し、同胞たちの凄惨な姿を見て驚きます。
 松本准尉談
「まるで、仏画に見る幽鬼そのものである。内地の乞食でももう少しましな格好をしている。これが、苦戦を続けたガ島・皇軍の姿であった」

 1月18日、最前線に到着した「おじさん部隊」に米軍の追撃砲の洗礼がまっていました。おじさん兵たちはタコツボにへばりついてじっと耐えます。20日、21日と続き、22日昼ごろ砲がやみました。「来るぞ」「右方向」。できるだけひきつけてなければなりません。初陣のおじさんたちははやる気持ちを押さえ、やがて命令一下、機関銃と小銃で一斉射撃を開始し、米軍を撃退しました。24日も米軍が進撃してきたのを迎撃します。25日には新しい陣地に移動しました。ここでやっと敵を撃退しているのに下がらされていることに気がつきました。矢野大隊長は撤収作戦に気がついたのです。
 26日には食糧がつき、おじさん部隊からも下痢やマラリア患者が出始めました。既に兵力は2/3になっていました。31日には編成時750名のうち戦闘に耐えうるものは350名となります。米軍は戦車を先頭にしてやってきますが、おじさん部隊は爆雷を抱えて戦車に突っ込み、一斉射撃を加え反撃します。凄惨な戦いとなってきました。

 2月1日に第一次撤収、2月4日、第二次撤収。おじさん部隊はこのことを知りません。実は「おじさん部隊」の一部は残地させることになっていました。見捨てざるを得なかったのです。しかし、矢野大隊長は全員玉砕の覚悟で第一線に踏みとどまりました。これには司令部が折れました。2月7日、おじさん部隊の生存者全員が駆逐艦にのってガダルカナル島を後にしました。

 米第一海兵師団戦闘記録
「タサファロングに到達したのは2月1日であった。しかし、この間、タサファロングで頑強な抵抗にあったほか、日本軍の主力には遭遇しなかった。日本軍は22日よるから撤退のため後方に戦線を収縮しつつあったのであるが、われわれはついにこれに気付かなかった。
 タサファロングで頑強な抵抗をした部隊は、撤退を援護するために特に増派されたものであった」

 おじさん部隊は意外?な大活躍によりガダルカナルから1万3千の将兵が無事撤退することに成功しました。



参考文献
 光人社NF文庫「ガダルカナルを生き抜いた兵士たち」土井全二郎(著)
 毎日ワンズ「ガダルカナル辻政信(著)
 ちくま文庫「責任 ラバウルの将軍 今村均」角田房子(著)
参考サイト
 WikiPedia「ケ号作戦」

添付画像
 マタニカウ河の戦闘で撃破された九七式中戦車(PD)

広島ブログ よろしくお願いします。