ラバウル大要塞

ラバウルは生き残った。


 ラバウルといえば大東亜戦争で多くの撃墜王をエースパイロットが浮かぶでしょう。そして難攻不落の大要塞でした。このラバウル大要塞は終戦まで健在でした。米軍はマリアナ、フィリピンと進みましたから、補給路は分断されていますが、約7万の将兵と軍属は飢餓になることもなく無事だったのです。

 昭和18年3月以来、連合軍のラバウル上陸作戦は必至とみて、地下要塞を建設していましたが、10月になると敵の空襲が激しくなり、今村軍司令官の防空壕が直撃弾で潰されるという事件があり(今村司令官は無事)、軍全体の陣地編成の構想が抜本的に改変され、陣地、事務所、会議室、食堂、居住空間を上層20メートルぐらいの洞窟の中に設け、全部がトンネル式で連絡する地下市街といえるようなものを設計し、5ヶ月で完成させました。これでどんな大編隊の爆撃があっても、びくともしなくなりました。

 食糧はどうしたか、というと農耕して現地自活したのです。開墾した農地は密林を切り開いたため、植物性の腐植土の厚い層をなしており、肥料なしで見事に育ちました。サツマイモ、米などの穀物、ナス、ウリ、トウモロコシ、ササゲ、ワケギ、かぼちゃといった野菜類・・・3ヶ月分の食糧は倉庫に格納し、自給自足体制にもっていきました。
 この自活は今村軍司令官が推し進めたもので、海軍にも実施を勧めましたが、昭和18年当初は海軍も余力があり、相手にされませんでした。しかし、昭和19年半ばになると海軍も本格的に自活を始めるようになります。陸軍内でも当初は物資を満載した輸送船が次々入港しているわけですから、「畑仕事より戦闘訓練だ」という声があり、島が孤立するなどとは実感がわかず、懐疑的でした。そこで今村司令官は「率先垂範」として自らが朝一番に畑に出かけて鍬をふるいます。司令官が朝一番に畑仕事をしていたのでは参謀も下のものもやらざるを得ません。こうして現地自活は成功し、ラバウルは最後まで持ちこたえたのです。

 しかし、米軍はラバウルに上陸してきませんでした。なぜか?
 マッカーサー総司令部の第二部長ウィロビー参謀少将の著書「ラバウルの孤立化」記事
「1943年中、マッカーサーの参謀たちは、ラバウルのことで、想像に絶するほどに多くの神経を使った。途方もない多くの陸軍力と空軍力とを増援してもらえれば話は別だが、そうでなければ、ラバウルを占領する方法は、参謀たちの頭には考えつかなかった。
 マッカーサー将軍とハルゼー提督、クルーガー将軍と豪軍のブレーミー将軍との間に行われた会議は有名なものだ。この会議の席上、マッカーサーの参謀たちはラバウル攻略計画に関する彼らの悲観すべき予測を説明し、最後の一人が『現有兵力でこのような堅固な敵陣地をどうしたら占領できるか、私には見当がつかない』と言った」

 こうしてラバウルは占領せず、空爆だけ行い、孤立化して餓死させる作戦が取られましたが、自活のため餓死することはありませんでした。7万の将兵ラバウル終戦まで温存されていたのですからもったいない話ではありますが、今村司令官の先見の明は光ります。また、日本が開戦当初に想定していた日本近海での米艦隊との決戦構想を堅持して島々に強固な防衛陣地を作っていれば米軍も容易に日本進攻は出来なかったことがこのラバウルの話からでも想像がつくでしょう。



参考文献
 「陸軍大将 今村均」秋永芳郎著
 「責任 ラバウルの将軍 今村均」角田房子著
 
添付画像
 空襲を受けるラバウル港(PD)


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ラバウル小唄
http://www.youtube.com/watch?v=B_YWPf7LGhM