餓島

飢餓の島となったガダルカナル。まだ先人の遺骨が残っています。


 昭和17年(1942年)8月から始まったガダルカナル戦は一木支隊の先遣隊が全滅した後、川口少将率いる川口支隊が島に上陸しました。
 9月12日、川口支隊は夜間総攻撃を開始。敵味方の乱闘となり手榴弾、拳銃、銃剣で争いました。翌日には大勢は決し、日本軍は重火器の前に敗れ去りましたが、田村大隊は飛行場の中央部に留まり三日二晩戦い抜いています。近すぎて味方撃ちするので、米軍は大砲を打ち込むことができなかったのです。しかし残念ながら食糧尽き、水が尽きて引き揚げざるを得ませんでした。

田村少佐
「もう二つ握り飯があったら、完全に成功しただろう。主力が続かないで、大隊500人だけが敵に四方から囲まれ3日間がんばった」「支隊全部がいっしょに固まって夜襲してたらきっととれたよ。いまごろは、ルーズベルト給与で太っていたろうによ」

 この攻撃で川口少将の本体が続かなかったのです。この後、海軍の戦艦「金剛」「榛名」がルンガ湾に殴りこみをかけ、丸山師団が上陸し、総攻撃をかけますが、このとき、川口少将は総攻撃の延期を二回も意見し、ついに更迭となりました。
 丸山師団の攻撃も失敗におわり、糧食が尽き、「ガ島」転じて「餓島」となります。日本軍は駆逐艦や潜水艦、発動機を使って夜間「ネズミ輸送」「モグラ輸送」「アリ輸送」といわれる輸送が精一杯の状況でした。駆逐艦の輸送を米軍は「東京急行」と呼びました。
 潜水艦の物資を揚陸する任務を行った寺田定陸軍少尉は任務が終わっても潜水艦から離れがたかったと述べています。
「なんとなく内地の匂いが感じられるのです」

 潜水艦から好意の握り飯や慰問文の特配がありました。同少尉談。
「極端な食糧欠乏で病人同様の将兵たちは、感激で目元をうるませていましたなあ」

 昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島より撤退しました。

 ガダルカナル戦の百武軍司令官はラバウルで赴任してまだ日の浅い今村方面司令官に次ぎのように述べました。
「部下の三分の二を斃し(たおし)、遂に目的を達せず、他方面戦場から閣下までをわずらわし、事態を収拾していただいたような戦例は、わが国の戦史上にはないことでしょう。武人として、こんな不面目のことはありません。ガ島で自決すべきではありましたが、生存者一万名の運命を見届けないで逝くことは、責任上許されないと思い、恥じ多いこの顔をお目にかけた次第です。恐れ入りますが、今後の始末はどうか方面軍でやっていただき、私が敗戦の責任をとることをお認め願います」

 今村方面司令官は乃木将軍の例を述べて、自決の時機を選定するよう勧めました。

 第38師団の内野要作上等兵は2月1日の撤収で救出され、ブーゲンビル島のエレベンタに到着しますが、隊列の行進はできず、這うようにして宿舎にたどり着きました。
「撤収のとき艦上に引き上げてくれた水兵、そしてエレベンタ基地の兵隊が、みな、相撲取りのような立派な体格に見えましてねえ」

 宿舎では安心したのか兵たちはばたばた死んでいったと言います。右隣に寝ていた兵が「ただいま、帰りました!」と元気な声を上げたところ、別の兵がそれを聞いて「ああ、ヤツもとうとう、我が家に帰って行ったのか」と言うと、まもなく帰還の声を上げた兵は息を引き取りました。
 内野上等兵はその後、フィリピンのマニラに収容され、ガイコツに皮をかぶせたような体に軍医が驚き、「こんな身体でよく軍隊に来たな」と言われ、ガ島にいたことがわかると、その場で「内地召還」にしてくれました。しかし、内野上等兵「仲間の多くがガ島で死んでいるのに自分だけ帰るわけにはいかない」といって、ラバウル行きを希望し、乗り込んだ輸送船が米軍の攻撃によって撃沈されながらもラバウルにたどり着きました。内野上等兵の小隊長はこのように述べます。

「内野、なぜ帰ってきた」「せめてお前一人でも、内地に帰してやりたくて入院させたのに」

 内野上等兵ラバウルに帰ってきてよかった、と述べています。



参考文献
 光人社NF文庫「ガダルカナルを生き抜いた兵士たち」土井全二郎(著)
 毎日ワンズ「ガダルカナル辻政信(著)
 光人社NF文庫「陸軍大将 今村均」秋永芳郎(著)
参考サイト
 WikiPediaガダルカナル
添付画像
 東京急行(PD)


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