ガダルカナル決戦

飢餓の島となったガダルカナル島


「天が落ちてもガダルカナル島は大丈夫」

 大東亜戦争・日米戦で日本海軍はこう豪語していました。昭和17年(1942年)8月9日、大本営海軍部の発表があります。

「8月7日、早朝、敵は数十隻の輸送船団をもってガダルカナル島に上陸を開始し、同地のわが陸戦隊は勇敢に戦闘中なり・
 わが艦隊および航空隊はこれに猛撃を加え、8月8日、敵海軍および輸送船団に壊滅的打撃を与えたり。撃沈、巡洋艦5、駆逐艦10、撃破、重巡2、駆逐艦、輸送船多数、撃墜敵機・・・」※1

 日本海軍は大戦果をあげたわけですが、米軍は既に上陸したあとであり、しかも日本艦隊は米輸送船団に攻撃を加えなかったため、大量の物資を揚陸させてしまいました。これは大変な失敗で、連合艦隊司令長官山本五十六は激怒したといいます。
 10,900名の米海兵隊員が、ガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸し、ツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸します。ガダルカナル島防空壕以外陣地整備されておらず、日本の設営隊は簡単に駆逐され飛行場を奪われてしまいます。

 ツラギ島方面では陸戦隊250名程度がおり、わずかな機関銃と小銃、手榴弾程度の武装でしかありませんでしたが、洞窟に潜み、サンゴ礁に隠れ、奮闘します。タナンボコ島では航空燃料を米軍が上陸しそうな地点に並べ、夜、米軍が上陸してくるとドラム缶に一斉射撃を加え、炎上させ、丸見えになった米軍部隊を狙い撃ちし、撃退しています。しかし、その後米軍は艦砲射撃を加え、島の四方から上陸してきました。

 横浜海軍航空隊、宮川政一郎・海軍整備兵長、桜井甚作二等工作兵は奇妙な運命をたどっています。両名ともタナンボコ島にいましたが、米軍の空襲によって壕に避難したものの、艦砲射撃により壕が潰されて閉じ込められてしまいました。そのうちまわりは米軍に占領されたため、53日間のモグラ生活をしています。幸い、壕には梅干とミカンの缶詰とサイダーが備蓄されており食いつないでいます。やがて米軍が壕を掘り返し始めたので、夜間に脱出し、フロリダ島へ泳いでわたりました。ここでしばらく生活しましたが、米軍の褒美目当ての現地人に捕まり、捕虜となります。
 桜井さんの実家では甚作氏の戦死が伝えられました。そして葬式が行われます。しかし、甚作氏の父親は息子の死がどうしても信じられない。役所から遺族扶助料が届けられても「そんなもんもらっても仕方ねえ」と突っぱねました。あるとき、神にもすがる思いで、「占い師」に見てもらったところ「土グモのように、密閉された状態の穴か、なにかの中で、多少ハラはへらしているが生きている」と卦がでたのです。実に不思議な話です。甚作氏は戦後、無事復員しました。この占い師はたいへんな評判になったといいます。


※1 第一次ソロモン海戦 米側損失:重巡4沈没、重巡1大破、駆逐艦2中破。日本側損失:重巡1沈没、重巡1小破


参考文献
 光人社NF文庫「ガダルカナルを生き抜いた兵士たち」土井全二郎(著)
 毎日ワンズ「ガダルカナル辻政信(著)
参考サイト
 WikiPediaガダルカナル島の戦い」「第一次ソロモン海戦

添付画像
 ガダルカナル島地図(PD)

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