不当に奪われた北方領土

条約を破られ、火事場泥棒に北方領土を奪われました。


 昭和20年8月18日午前二時ごろ、北方領土最北端の占守島に国籍不明のが上陸。ソ連軍でした。そして日本軍と交戦。23日に停戦協定が結ばれます。ソ連軍は8月27日には得撫島の沖合いまで到達します。ここにたどり着くまで米軍機が上空を飛んだことがあります。このとき、ソ連艦に占守島にいた日本軍参謀部の将校が乗艦していましたが、「空襲警報が発令された」「米軍機は友軍ではないか?と質すと、今後は日本と握手して米軍を叩くのだと言ったり、或いは、米軍が択捉付近まで進出しているかもしれないと語ったりした」と証言しています。別の艦では米軍機に対して高角砲や高角機関銃の射撃がニ三十分続けられました。もう、米ソの対決に入っていたのですね。得撫に飛行基地を作らせるかで米ソが激論していたのでした。

 それからソ連艦船は北へ引き返しました。ソ連艦に乗船していた水津満参謀はソ連軍ウォロフ参謀長に引き返す理由を尋ねるとこう答えたといいます。

「これより以南はアメリカの担当だからソ連は手を出さない」

 ところが8月28日にソ連軍は択捉、国後の命令が出て9月1日には歯舞諸島色丹島を占領し、武器と捕虜の引き取りを完了したのが9月5日でした。

 言うまでもなくソ連の参戦自体が日ソ中立条約違反であり、千島列島の占領は不法行為になります。南樺太の占領もそうです。

 樺太では8月20日になって真岡町ソ連軍が進駐してきて日本軍と交戦になっています。ソ連軍の祝砲に対して日本軍が実弾で応戦したという話もありますが、真岡町にはほとんど日本軍の戦力はないにも拘らず民間人が大量に殺害されました。平和的にソ連軍が進駐した町もありましたが、警察官らは共産党を迫害したというような理由で射殺されたり、シベリアに送られました。

 さかのぼること4年余り。昭和16年4月13日、日ソは中立条約を結びました。この後、日本と軍事同盟を結んでいたドイツが日本に何の連絡もなく、6月22日にソ連に攻め込みます。日本は大変難しい局面に立たされました。ここで日ソ中立条約の立役者となった松岡洋右が意外なことを言います。

「日本はただちに北進してソ連を攻撃し、ドイツとともに東西からソ連を挟み撃ちにすべきだ」

 戦後、日本は「バスに乗り遅れるな」とヒトラー・ドイツに追随したのがまずかったといいますが、それはナチスと同盟した「日本悪玉論」という戦後の刷り込みであり、当時の国際情勢は奇奇怪怪で、「戦争に勝つのが勝者」という観点でいうと松岡洋右の進言は正しかったということになります。バスに乗り遅れたのです。
 日本は対ソ戦備を強化していますが、それはあくまで万一のことを考えてのことです。ソ連満州に進攻してくることもありえるからです。昭和16年7月2日の御前会議では日本は軍事同盟によってソ連と戦争する義務はない、という結論に達しています。日本は国際信義を守ったわけです。

 チャーチルアメリカのウェデマイヤー将軍は異口同音に次のように指摘しています。
「日本は第二次大戦で勝者となれる、唯一最大のチャンスがあった。それは独ソ戦勃発時に北進してソ連を攻撃し、ドイツと組んでソ連を東西から挟み撃ちにすることだった。この絶好の機会を日本はみすみす逃してしまった。日本が北進せず南進して、アメリカとの戦争に突入してくれたことは、われわれにとって最大の幸運だった」

 当時の国際情勢からいうと条約なんて「紙切れ」だったのです。ですが、日本は明治維新からずっと国際信義を守り続けたのです。松岡洋右の進言を昭和天皇は叱責したといいます。国際信義を守り戦争の勝者になれず、北方領土を不当にとられた日本。国際信義を破り火事場泥棒をしたソ連。歴史は必ず再評価されるでしょう。まだ勝負は終わっていません。いつか千島列島と樺太からロシアを叩き出す日がくるでしょう。



参考文献
 「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳(著)
 「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
 「ダスビダーニャ、わが樺太」道下匡子(著)
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)

添付画像
 北方領土返還を訴える看板。函館市内にて。Author:shirokazan


広島ブログ よろしくお願いします。