旭川へ凱旋した二十八連隊 〜 ガダルカナル戦

魂は凱旋した。


 昭和17年8月7日より始まったガダルカナル島を巡る日米決戦で、日本軍は第一次ソロモン海戦で敵輸送船団を撃ち漏らすという大失態に続き、敵兵力を過少に見積もり、兵力を逐次投入するという失敗をしてしまいました。
 
 ガダルカナル島に最初に派遣されたのがミッドウェー攻略を予定していた一木支隊(旭川の第七師団歩兵第二十八連隊を基幹とする)約2,300名です。8月17日と18日の夜を利用して海軍の駆逐艦ガダルカナル島のタイボ岬から上陸しました。(先遣隊戦力約900名) 米軍は日本軍の上陸を察知し、ルンガ地区イル川東岸の防備を固めていました。

 隊長の一木大佐は支那事変やノモンハン戦で輝かしい戦績をあげた人で勇猛果敢な人でした。敵が一万を超す大兵力とは知らず、20日夜、イル川を渡河し、白兵攻撃を仕掛けます。しかし、米軍の鉄条網に阻まれ、戦車になぎ倒され、ほどこす術はありませんでした。

 一木隊の生き残り増子勇氏

「予期はしていたが、突然、真っ暗闇の中で敵の銃口が火を吹き、銃声が闇にこだましながら、夜襲部隊の頭上に逆襲してきた。雨あられをブっつけ本番できたもんだから、たまったもんじゃない。立つはおろか中腰にさへもなれない。早くいうと、ちょうどカエルをひっつぶしたような格好なのだ」

「敵砲弾はちこちのヤシの木を根っこから吹き飛ばし、戦友たちは砂ぼこりと共に中天に噴きあがり、ばらばらになって落下してくる」
 一木支隊は翌21日には包囲殲滅されました。先遣隊916名のうち一木大佐をはじめ840名が戦死しました。増子勇氏は負傷しながら7日間ジャングルをさまよいます。飲まず食わずの間みた「幻」は懐かしい旭川のたたずまいだったと述べています。「故郷では、お盆もはや終わり、秋のみのりを待つばかり。水田も畑も希望に膨らんでいることだろう」「わが瞼(まぶた)に焼きつきて片時もはなれず、焦がるること渇水に泉を得たる如く、ぬばたまの闇に貧灯を見定めたるによく似たり。ふるさと旭川よ。山よ、川よ、草よ」

 ちょうど一木支隊がガダルカナルで戦っている8月20日の深夜、はるか6000キロ離れた日本の北海道旭川の第七師団兵営の営門で立哨の衛兵が抜刀乗馬の将校を先頭にした部隊が近づいてくるのを見ています。「整列」と衛兵所に声をかけて帰隊を待っていましたが、いつまでたっても帰隊するようすがなく、部隊はかき消すように消えていたといいます。これを連隊副官に報告したところ「貴様らは何をみているかッ」と一喝されました。
 翌日の夜も同じ時刻に、こんどは別の衛兵が同じ現象に遭遇しました。これを副官に報告したところ「貴様たちもかッ」と怒鳴られました。このとき、空き兵舎に旭川中学の学生が一泊の軍事訓練できていました。不寝番の学生立哨一名が深夜12時頃、兵舎前に中隊が現れ、巻脚半(ゲートル)を解き始めるのを見て驚いて教師に報告しています。教師も驚き、兵舎前に走っていきましたが、その時には誰もいなかったといいます。これを翌朝副官に報告しましたが、副官はもう何もいいませんでした。二十八連隊の魂が旭川に凱旋したのです。



参考文献
 光人社NF文庫「ガダルカナルを生き抜いた兵士たち」土井全二郎(著)
 毎日ワンズ「ガダルカナル辻政信(著)
参考サイト
 WikiPediaガダルカナル島の戦い

添付画像
 1942年8月21日海岸部で包囲殲滅された一木支隊(PD)

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