江戸時代、農民は虐げられていたのか

百姓は百の姓という公民の総称。天皇の権威の下にあった。


 江戸時代は武士がいばっていて、農民をイジメて搾取したようにいわれていますが、実際には農民は「村」の単位で自治しており、領主が「村」に立ち入ることはありませんでした。
 知行取りの武士は「XX石の知行どこそこ」といって領地が定められますが、江戸時代の武士はその領地に住むことも無ければ見にいくこともありません。(一部の藩では実際に領地を治めていた) 領地を治めるのは藩の官僚機構が全部肩代わりしていたのです。
 年貢は「村」の責任によって納入され、年貢未納者は村が弁済しました。これを年貢村請制といいます。年貢の率は5公5民とか言われていますが、検地が終了してからは農業生産の実態は変化しており、収益性の高い商品作物の導入や農業化工業の進展、農民の賃金収入などといった経済条件を加えると実質は十数パーセントから二十パーセントといったところになります。
 
 1603年に農民統制令が発布されています。これには領主に非分がある場合には、所定の手続きをとればそのムラからの立ち退きが許されていました。武士に対しては「百姓をむさと殺候事御停止たり」と理由もなく切り殺すことを禁じていました。「切捨て御免」とういのは俗説です。また「農民を生かさぬよう、殺さぬよう」というのも同様です。よく農民が借金をするとき「年貢が払えないから」と理由をつけた証文がありますが、これは証文作成上の常等文句であり、必ずしも年貢の重さによって困窮したわけではありません。会社を退職するときに「一身上の都合」という常等文句を辞表に書くのと同様です。

 ムラには村役人というのがおり、名主(庄屋)、組頭、百姓代という村方三役がおり、農民の利益を代表する性格と幕藩体制の行政役人という性格を持っていました。村役人の選出はムラで行います。
 農民は家族員の死去や離散で生産能力が欠如した場合も組という複数農家による助けあいが行われていました。村にはムラの掟があり、違反したものは「村八分」となっていましたが、実際には一定の罰金や労役で済んだようです。

 農民は苗取り、田植え、稲刈りなどの農作業が終わった後は農休みをとり、18世紀後半以降になると娯楽性の強い遊び日として意識されるようになっています。大体年間30から40日、場所によっては60日あったといわれます。休日には歌舞伎、踊り、獅子舞、相撲、花火などの祭礼興行を行うに至っています。あまりにも遊興化が進むと幕藩領主が倹約令を出すようなことも起こっています。豊かになっていた証左でしょう。

 飢饉になると百姓一揆や打ちこわしが起こりますが、これは体制を壊そうというものではなく、年貢減免などの要求を出すものです。百姓は現在考えられているほど弱い存在ではなく、「百姓」というのは百(たくさん)の姓という意味で、天皇から「姓」を与えられた公民の総称です。1821年の上野国百姓一揆では「然れば上御一人より下万民に至るまで人は人というに別はなかるべし」天皇のもとの平等を訴えています。1853年陸奥国百姓一揆「汝等百姓杯(など)と軽しめるは心得違いなり。百姓の事を能く(よく)承れ」とカラカラとうち笑い誇っていたといいます。百姓は天皇の権威の下にあり、強い存在だったのです。



参考文献
 「武士の家計簿磯田道史
 「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎 共著
 SAPIO 2009/11/11「天皇論追撃篇」『百姓は天皇を知っていた』小林よしのり

添付画像
 日下部金兵衛の「稲刈り」(PD)

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