琉球王朝の誕生

琉球王朝はどのようにして誕生したか。


 沖縄の歴史では12世紀に保元の乱で本土を追われた源為朝沖縄本島南部に居住する豪族の娘ともうけた舜天(しゅんてん)が王となって沖縄を統一したと伝えられています。沖縄学の父と言われた伊波普猷(いは ふゆう)氏によると、「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」という17世紀中頃に書かれた史書だけでなく、室町中期に書かれた神歌にも甲冑を纏った「大和の戦」が運天港に上陸した光景を歌ったのがあり、「琉球神道記」にも異国人がこの国を支配したとなっているので、院政時代から室町時代に至るまでの間に、本土勢力が沖縄に入ってきたことは間違いない、と述べています。

 14世紀になると沖縄本島では3人の按司あじ)が力を持ち争います。中山、南山、北山の三山と呼ばれ、それぞれが支那の明朝に入貢(にゅうこう)し、抗争は熾烈になっていきました。中山の察度王(さっとおう)が舜天の子孫になります。

 15世紀に入って佐敷の豪族「巴志」が台頭してきて三山を滅ぼし琉球王国を誕生させました。そして明の皇帝より「尚」の姓をもらいました。第一尚氏王朝です。1429年が琉球王国誕生とされています。

 しかし、しばらくは王朝の勢力は弱く、20年後の尚泰久王の時代に護佐丸、阿麻和利の2勢力が台頭してきました。「丸」というのは大和の男子につける名前なので、護佐丸は大和武士の家系の可能性があります。座喜味グスクは護佐丸が築いたものです。
 阿麻和利は尚泰久王に護佐丸が謀反を企てていると、そそのかして護佐丸討伐の大軍を差し向けました。護佐丸は「王命に逆らってはならぬ」と妻子とともに自刃して果てました。

 尚泰久王の家人に金丸という役人がいました。これも「丸」がついているので大和武士の子孫かもしれません。金丸は伊是名島の一農民でしたが、すごいイケメンだったらしく、村の娘たちのアイドルだったといいます。金丸は尚泰久王に仕え、地頭から財政、外交に関する重要な地位を占めて快腕をふるったといいます。
 1460年、尚泰久が死去。跡を尚徳が継ぎますが、金丸とは性格があわず、事々に衝突しました。王は好戦的な人物で、財政難にも関わらず遠征軍を派遣し、成功すると暴虐ぶりを発揮しました。金丸は王の暴虐を見かねて隠退します。どうもこれはクーデターの準備をしていたようで、王が久高島参詣に出かける間にクーデターが勃発し、革命軍は王城に乱入して王妃、世子を殺害しました。即日、"よのぬし選挙"が開かれます。いわゆる大評定です。ここで金丸と親交を結んでいた安里大親(あさとのひや)という呪術師が神懸かりして謡いだします。

「虎の子や虎、悪王の子や悪王、食物居ゆすど我が御主、内間御鎖(うちまおざす 金丸のこと)ど我が御主」

すると民衆は「オーサーレー」と叫び金丸がたちまち琉球の主として君臨することになりました。第二尚氏の誕生です。「食物居ゆすど我が御主」というのは人民が安心して生活できるようにするのが君主である、という意味です。
 この第二尚氏明治維新以降の琉球処分まで沖縄に君臨することになります。第二尚氏王統は中央集権化に成功し、宗教を厚く守り、文化振興しました。八重山を征伐、刀狩りを実施しています。貿易も推進しました。三代尚真王(1465年 - 1527)のときが黄金時代となりました。

 その後、倭寇の発達と大航海時代の波によってポルトガルが東進してくると貿易は下り坂になっていきました。離島では人頭税のほか本島の3倍の重税を課されて苦しみました。「地割制」という集団農耕システムによって土地の共有が行われ、地割変えにより数年ごとに土地が変わるので労働意欲、農業の創意工夫意欲が削がれていきました。

 16世紀末、大和では豊臣秀吉による天下統一がなされ、17世紀にはいると徳川政権が成立します。そしてその余波は沖縄にもやってきました。



参考文献
 平凡社ライブラリー「沖縄歴史物語」伊波普猷(著)
 小学館「沖縄論」小林よしのり(著)
 WAC「誰も語れなかった沖縄の真実」恵隆之介(著)

添付画像
 琉球王国の行政の中心・首里城世界遺産)CC Auth:663highland

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