ダイハーンは恐ろしい連中だった 〜 ベトナム大虐殺

ベトナム戦争の韓国軍。




「ダイハーン(大韓)は恐ろしい連中だった」

 90年代半ば、ノンフィクション作家の野村進氏がベトナムのカイホンホア省ニンホア県ラクアン村を訪れたとき、ブーン・スサという現地の人はこう述べました。

「(ダイハーンは)死んだ人間から耳をきってきよった。鼻を削がれたもんも、首を狩られたもんもおる。そんなことは、もうどこでもあったことじゃ」

 ベトナム戦争で昭和40年(1965年)より韓国はのべ30万もの兵を投入しました。このほか、フィリピン、タイ、オーストラリアも派兵していましたが、韓国は米国に次ぐ大量の派兵でした。この韓国軍が現地民を殺戮しまくり、推定30万人を超す大虐殺事件となりました。

 昭和42年(1967年)当時、ベトナム中部フーイェン省では韓国軍が大規模な作戦を進めており、韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていたました。しかし、多くの村人は移住を嫌がりました。すると韓国軍は住民を皆殺しにしました。ビンスアン村を韓国軍が襲ったとき、農作業に出ていたグエン・バン・トイさんは難を逃れましたが、村に戻ったトイさんが目にしたのは、身の毛もよだつ光景でした。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていました。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていました。そのなかには、トイさんの妻と3人の子供の遺体もありました。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていました。

 フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウさんは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていました。そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届きました。大急ぎで帰ったチャウさんが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景でした。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていました。

 昭和40年(1965年)から翌年までブウエン省のタオ村では、ほとんど大部分が婦人の村人42人を狩りたて、やがて小火器を浴びせ、全員を殺害。昭和41年(1965年)1月11日から19日の間、ビンディン省で300人以上の住民をつかまえ、拷問を加え虐殺。ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方で住民の所有物を残らず掠奪し、家、教会を焼き払い家畜を殺し、住民も殺害。ナムフン郡では4人の老人と3人の妊婦を防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで虐殺。アンヤン省の三つの村では110人を、ポカン村では32人以上を虐殺・・・昭和41年(1964年)3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は数千に及ぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年寄りの女性まで強姦しました。ブガツ省では3万5千人が"死の谷"に狩りだされ、拷問を加えられ虐殺されました。このような事件はほとんど毎日のように続きました。

 韓国兵にもいい分はありました。元兵士は次のように語っています。
「村をひとつ焼いて、皆殺しにしたことがあるんだけどね。十六、七軒くらいかな。とにかく小さな村で、全員死んだと思ったら、生存者がいてその通報でバレたんです。あとで問題になりましたよ。でも、これはやむをえなかった。うちらが命がけでその村を守っていたのに、連中はベトコンとツーカーで、韓国軍の動きは筒抜けだったんだからね。みんな完全にキレましたよ。・・・ええ、女子供も見境なくね」

 韓国はベトナム戦争に参戦し、米国からお金をもらい、韓国製品の輸入規制を緩和してもらい、ベトナム特需とさらに日韓基本条約で日本から無償資金と借款を受け、ベトナム戦争の10年間で輸出も外貨も30倍になり、年10%近い経済成長を続けました。それは「漢口の奇跡」と呼ばれました。韓国ではベトナムに派遣された韓国軍は「平和の十字軍」であり、ベトナム戦争は「自由と平和を守るための聖戦」として語られています。



参考文献
 講談社文庫「コリアン世界の旅」野村進(著)
 新時代社「朝鮮 新たな危機の内幕」D・W・W・コンデ(著)岡倉古志郎(訳)
 株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越二荒之助(編著)
参考サイト
 ニューズウィーク日本版2000年4月12日号「私の村は地獄になった」

添付画像
 韓国軍によるフォンニィ・フォンニャットの虐殺写真と資料 
 写真はJ・ボーンアメリ海兵隊伍長撮影 パブリックドメイン
<左上から>
 ベトナム議会に補償を求める遺族の嘆願書
 韓国軍に焼かれた住民
 バート・モレヘッド・コックアメリカ陸軍大佐が監察官として作成した虐殺事件の報告書(1970年1月10日
<右>
 至近距離から撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名の妊婦

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