戦犯となった今村均

聖将・今村均


 戦後のBC級戦犯とされた日本兵への虐待は想像を絶するものがあります。ニューギニア本島の西にある小島のモロタイでは豪兵による日本兵虐待が行われていました。日本兵囚人が作業から帰ってくると皮の鞭、棍棒、板切れなどを振り上げて集団リンチが行われます。夜の点呼でも集団リンチが行われました。これが日課になっていました。

海軍軍属の中沢清
「気絶した仲間を肩に担いで逃げ回っていたものだが・・・地獄でしたねえ」

 自殺者もあとをたたず「・・・これで何人目かな」とつぶやいたと述べています。

 モロタイの日本人戦犯はラバウルに移されます。ところがラバウルでは全員が日本の軍服を着て階級章までつけており、規律正しく落ち着いた雰囲気でした。今村均がいたからです。ラバウルでもデタラメな裁判が行われていましたが、今村均司令官は戦犯を守るためにはどんなことでもし、日本人が不当な迫害を受ければいつでも強く豪軍に抗議していました。

 ラバウルでは豪軍のイーサー司令官が戦犯調査を行い、戦争犯罪をもって問うべきものはない」と結論付け、本国に報告しましたが、本国から何が何でも戦犯を作るために日本軍の中の労働隊内のインド人、インドネシア兵補を誘導して些細なことでも告発するようにしむけ、デタラメな告発が作られていったのです。

 今村司令官はインドネシアの電光石火の作戦指導だけでなく人格者として豪軍に知られていました。豪本国から来る高級軍人は今村に会いにきて、思想問題や宗教、哲学について語り合い、今村の知識や教養に感服して敬意を払うようになったといいます。この今村が10万の日本兵を動かしたらどうなるか?という恐れもあったでしょう。収容所の所長は今村が日本人の不当な扱いに抗議に来るとタジタジになり、直ぐ行動を起こしています。

 今村均ラバウルで禁固10年の判決を受けた後、インドネシアへ送還され、そこでも裁判を受けます。ここでは裁判長が今村に有利になるように尋問をしたといいます。さらに、突然オランダ人の夫人を証人として法廷に尋問し、今村が忘れていたような今村に有利になるような事実を述べさせたりしています。そして時局も昭和24年末にインドネシア共和国の独立がハーグで認められる事態となり、今村は無罪となります。

 この後、今村は東京の巣鴨でに移されます。巣鴨では家族と面会することができました。ところが今村はラバウルの自分の部下がマヌス島に移され、劣悪な環境下で悪待遇に悩まされているのを知り、マヌス行きを熱望し、遂に聞き届けられました。まったく驚く話です。いくら何でもここまで出来る人はいないでしょう。

GHQ司令官マッカーサー
「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」

 昭和28年、マヌス島が閉鎖となり、今村は巣鴨に戻ってきました。昭和29年11月に刑期満了となります。その後、今村は暇さえあれば戦没した部下の遺族を弔問し、世話を続け、その一方ではこつこつと自伝を書き読書にふける生活を続けました。生存している旧部下の中には今村を訪ねてあやしげな口実で頼みごとをするものがおり、今村の友人が「相手の話を確かめてから援助されたらいかがですか。大分騙されておられますよ」と心配すると、今村はこう言います。

「それは、私にもわかっています。だが、戦争中、私は多くの部下を死地へ投じた身です。だから戦争が済んだ後は、生きている限り、黙って旧部下に騙されてゆかねば・・・」

 今村大将は昭和43年10月4日、心筋梗塞でこの世を去りました。今村大将の急逝の知らせを受けて駆けつけた親しい間柄の太田庄次氏は「今村大将の呼吸は止まったが、生前も死後も神であることに何の変わりもない」と述べました。



参考文献
 「陸軍大将 今村均」秋永芳郎著
 「責任 ラバウルの将軍 今村均」角田房子著

参考サイト
 WikiPedia今村均
添付画像
 今村均(PD)

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