ハル・ノートを突きつけられたとき日本はどうすればよかったか

戦わずして勝つ方法はあったか。


 昭和16年11月26日、「ハル・ノート」と呼ばれる米国の最後通牒が突きつけられました。8ヶ月にわたって日米交渉を行ってきて、米国は譲歩もせず、さらに厳しい要求を突きつけてきたのです。

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 これは米国でも非難があり、セオボルト海軍少将は「まさしくハル・ノートは日本を鉄棒で殴りつけた挑発だった」と述べ、グルー駐日大使も「このとき、開戦のボタンは押されたのである」と述べています。フィッシュ議員は真珠湾攻撃のときにルーズベルト大統領のもとに団結して、祖国の危機に立ち上がろう、という演説をしましたが、ハル・ノートの内容を知り「私はルーズベルトが日本に恥ずべき最後通牒を送って、日本の指導者に開戦を強要したことを知った。わたしはわたしの演説を恥ずかしく思っている」と言っています。

 ハル・ノートには「重慶政府(蒋介石の政府)以外は支那におけるどのような政府または政権も支持してはならない」という提案があります。日本は満州からも追い出されるということです。日本は陸軍の暗号解読能力が高かったので暗号の解読が進んでおり、ルーズベルト蒋介石満州から日本を追い出そうとしていることを知っていました。大陸から追い出されたら日本はABCD包囲の中、大量の餓死者を出すしかありません。石油も簡単には売らないでしょう。石油がなければ軍艦も飛行機も動きません。軍事力が背景になければ外交は米英の言いなりになるしかありません。

 ハル・ノートを受け入れて座して死ぬくらいなら戦うという道を日本は選びました。本当に戦うしか道はなかったのか?

 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は「当時の外交責任者たちは、アメリカという国の本質が分からずに日米交渉をやったのではないか」と述べています。日本の外交はルーズベルト大統領やハル長官といったアメリカ政府を相手に交渉しています。しかし、アメリカという国は農村社会でいう「皆の衆」の存在が大きい。ようするに大統領というのは人気商売ということです。ルーズベルト大統領は「在任中に戦争を始めない」と公約して当選した人です。だから「皆の衆」アメリカ市民に向かってハル・ノートを暴露すればよかった。そうすればアメリカ市民はルーズベルト大統領に対する監視を強め、めったなことは出来なくなったのではないか、というものです。日本は相手が良く見えていなかったし、秘密交渉ということで律儀すぎたわけです。

 作家の新野哲也氏は「フライング・タイガー計画」をアメリカ議会に告発したら、ルーズベルト大統領の公約のウソがバレて議会から追求され、辞任に追い込まれた可能性が高い、と述べています。ルーズベルト大統領は密かにパイロットを義勇軍と称させて蒋介石軍に送っていたのです。ルーズベルトは大の日本人嫌いでした。彼を引き摺り下ろすための情報戦を早期にしかけるべきでした。

 しかし、日本はハル・ノートが突きつけられた時点で誰がどう言うともなく「開戦」しかない、と思ってしまいました。そして米はハル・ノートを突きつけて直ぐにスターク海軍作戦部長から米各軍へ戦争警告電報が発せられました。

「・・・日本の今後の動きは予測不可能だが、いつなんどき武力行使に出るかもしれない。戦闘行為を避けることができない。繰り返す できない のであれば 米国は日本が最初に明白な行為をとることを希望する」

 そして日本連合艦隊機動部隊は真珠湾に吸い込まれて行きました。



参考文献
 「パール判事の日本無罪論」田中正明
 「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一
 「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也著
 「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット著

添付画像
 真珠湾日本機動部隊の攻撃を受ける戦艦カリフォルニア(PD)

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