日米開戦は海軍の意思

海軍がウンと言わなければ日米開戦はできない。


 日米開戦は現役陸軍大将である東條英機の内閣のときに決定しています。しかし、日米戦は海軍が主体となりますから、海軍がウンと言わないと出来ません。ですから海軍の意思でした。
 日本はなんとか米国との戦争を避けようと努力しました。昭和16年9月6日、第三次近衛内閣は日本は御前会議を開きました。外交交渉を継続し、10月ごろには和戦どちらかを決めるというものです。その後の対米交渉は豊田外相が担当しています。野村駐米大使を通して、米国務省との交渉にあたらせました。ルーズベルト大統領、近衛首相の首脳会談を打診するなどして努力しましたが、米国はまったく譲歩しません。基本合意なしに会談は開けないと突っぱねてきます。アメリカは戦争を避ける気持ちなどさらさらありませんでした。

 10月12日に五相会議が開かれます。首相、外相、企画院総裁、海相陸相の五名です。このとき、東條英機陸相でした。豊田外相は、米国の要求通り、一旦支那からの即撤兵を主張します。しかし、支那から即撤兵すれば国民政府と相対する南京政府はどんな目に遭うかわかりませんし、第二、第三の支那事変が起こる可能性もあります。そして御前会議で決まったことを変更するわけにはいかない、と東條陸相は反論します。これは正論で現代でもイラクから撤兵したくてもできない米軍を見れば明らかです。及川海相は外交は総理に一任する、と言い出しました。海軍は日米開戦について述べずに総理に丸投げして逃げたわけです。そして近衛総理も態度をはっきりさせませんでした。10月14日の閣議でも海相も総理も何も言いません。東條陸相は9月6日の御前会議の決定は一旦白紙に戻すべきと主張し、閣内不一致として総辞職すべきだと意見を述べました。そして近衛内閣は総辞職することになります。

 東條英機は次の首相は東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや)が就任すべきと考えていましたが、木戸幸一の推挙により東條英機が総理に任命されました。木戸幸一は陸軍の強硬派が怖く、東條を総理にしておけば安心と考えたのでしょう。そして東條英機9月6日の御前会議の決定を白紙還元しても良いという条件で引き受けました。もう一度日米交渉をやる、ということです。しかし、交渉結果、ハル・ノートが突きつけられました。東條英機が強硬に戦争を推し進めたわけでもなんでもありません。

 11月29日、連絡会議にて開戦が決定します。このとき昭和天皇高松宮殿下(海軍に所属していた)が戦争を避けたいという話を聞いており、東條英機を呼んで考えを聞いています。東條英機海軍は戦勝に相当の確信を持っている、と答え、「しかし、海軍作戦が基礎を成すことでもあります故、少し似ても御疑念を有らせらるるならば軍令部総長海軍大臣をお召しの上十分お確かめ願います」と述べました。昭和天皇は嶋田海相、永野軍令部総長を呼び尋ねています。その後に木戸内大臣を通じて海軍は相当確信があることを確認したと東條英機に連絡が入りました。したがって、日米開戦の決定は海軍の意思といってよいものです。

 海軍の意思で日米戦争が始まりました。しかし海軍は12月1日の御前会議でも述べている艦隊決戦方式を捨てて真珠湾に向かいました。インド洋を制圧し、英国を脱落させる戦略を捨てミッドウエーに転進しました。ミッドウエーでもカダルカナルでも戦艦大和を使いませんでした。レイテでも大和を突っ込ませませんでした。必勝を期した作戦行動はほとんどやらなかったと言っていいでしょう。東條英機「海軍の実力に関する判断を誤れり、しかも海軍に引きずられた。攻勢終末を誤れり、インド洋に方向を取るべきであった」と機密戦争日誌(昭和20年2月16日)に書き記しています。



参考文献
 「東條英樹 歴史の証言」渡部昇一
 「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也著
 「東条英機」太田尚樹著

添付画像
 真珠湾で炎上する米戦艦ウェストバージニア(PD)

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真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor (カラー映像)

http://www.youtube.com/watch?v=MbV5WMO1vYc