鈴木貫太郎内閣の誕生

 鈴木、阿南の腹芸始まる。


 東條内閣の跡を継いだ小磯内閣はシナ戦線の兵力を引き抜いて太平洋戦線にあて、戦局悪化を食い止めようとして対中和平工作を再開しました。蒋介石政権とつながっているというシナ人を使って交渉しようとしましたが、蒋介石の親書を持っているわけではなく、信頼ができる人物ではありませんでした。昭和天皇も「深入りしないようにせよ」とおっしゃり、小磯内閣は瓦解します。
 
 昭和20年4月5日、重臣会議で鈴木貫太郎が推されます。鈴木は「軍人が政治に出るのは国を滅ぼす基なりと考えている。耳も遠いし、お断りしたい」と述べます。しかし、平沼騏一郎が食い下がり「鈴木氏は海軍ではあるが、長く文官として最もご信任のある人だ。国民も行きがかりのない精忠無比の人だと皆が信じている」と述べます。
 鈴木は天皇より組閣の大命を受けることになります。しかし、鈴木は断ります。「政治はまったくの素人で・・・老齢で耳が聞こえず・・・」。昭和天皇はこうおっしゃります。

「耳が聞こえなくてもよいからやれよ」

 いつもは「憲法を遵守せよ」とか「陸海軍の連携を密にせよ」とか注文をつけるところ、何も言いませんでした。鈴木貫太郎は退役後、侍従長を8年間務めており、昭和天皇と以心伝心でした。(昭和天皇は「頼むからまげて承知してもらいたい」とおっしゃったという説もある)

藤田侍従長
「この君臣の、打てば響くような真の心の触れ合う場面を拝見し、陛下とすずき閣下の応答のお言葉を耳にした私は、人間として最大の感激に打たれた」

 そして鈴木貫太郎は総理を引き受け、市谷の陸軍省に赴き、阿南惟幾(あなみ これちか)大将を陸軍大臣に迎えると申し出します。阿南惟幾鈴木貫太郎侍従長だった時期のうち、4年間侍従武官を務めていました。ここでも以心伝心の人が選ばれています。公然と戦争終結を口にするわけにはいかず、終戦に持っていくには以心伝心であり、陸軍を抑えれる人物を陸軍大臣につけたわけです。
 フィリピンが陥落し、沖縄に米軍が上陸した以上、日本の生命線は既に絶たれているのは明らかです。(このシーレーンは現在も日本の生命線)しかし、国民の抗戦意識は強く、陸軍の抗戦意識も強い。どのようにして終戦に持っていくか。ここから鈴木貫太郎阿南惟幾の以心伝心の腹芸がスタートすることになります。
 
組閣翌日の鈴木貫太郎首相演説
「われわれが必死の覚悟を持って、すなわち捨て身であくまで戦い抜いていくならば必ずやそこに勝利の機会を生みまして、敵を徹底的に妥当し得ることを確信するものであります」
「わたくしの最後のご奉公と考えますると同時に、まずわたくしが一億国民諸君の真っ先にたって、死に花を咲かすならば、国民諸君はわたくしの屍を踏み越えて、国運の打開に邁進(まいしん)されますことを確信いたしまして・・・」

 演説の中の「わたくしの屍を踏み越えて」の裏にこめられた意味は「機を見て終戦に導く、そして殺されるということ」であり、「命を国に捧げる精忠」の意味でした。



参考文献
 「昭和天皇論」小林よしのり
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
 「東条英機」太田尚樹著
 「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀編
 文春文庫「昭和天皇独白録」
参考サイト
 WikiPedia鈴木貫太郎内閣」

添付画像
 鈴木内閣1945年(昭和20年)4月7日(PD)
 
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終戦秘史】 01 鈴木貫太郎に組閣の大命下る
http://www.youtube.com/watch?v=RWXWhwSJEEo