二度目の聖断
聖断は下った。
昭和20年(1945年)8月10日、日本国政府は国体護持を条件としたポツダム宣言受け入れを中立国を通じて連合国に打診しました。
「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す」
これに対して12日、連合国から回答が届きます。「バーンズ回答」と呼ばれるものです。
これで問題となったのは「降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下におかるるものとす」というところの「制限」の部分で、原文は「subject to」であり、外務省は意図的に「制限」と訳しましたが、これは「従属」「隷属」「服従」を意味しているもので、軍部はこれを正確に把握しており、反発することになります。
軍部のキーマンである、阿南惟幾陸相は「再照会すべき」と主張します。軍部の強硬派は阿南を頼りにします。
8月13日、最高戦争指導会議でも阿南惟幾陸相はポツダム宣言受諾反対を主張します。昭和天皇の聖断がある以上、阿南は孤立します。
陸軍強硬派が暴発しかねず、御前会議も参謀総長と軍令部総長が判を押さねば開くことがでいません。鈴木首相は天皇直々の召集に打ってでます。昭和天皇は即座に同意。最高戦争指導会議のメンバーだけでなく、閣僚全員を出席させます。阿南陸相と梅津参謀長はポツダム宣言受諾に反対を唱えます。そして昭和天皇はこう述べられます。
「国体についていろいろと危惧あるということであるが、先方の回答文は悪意を持って書かれたものとは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答をそのまま受諾してよろしいと考える」
「国民が玉砕し君国殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争を続けては結局我が国がまったく焦土となり、国民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることはわたしとしてはじつに忍び難い」
阿南惟幾陸相は号泣します。その阿南惟幾陸相に昭和天皇はこう述べます。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」
こうしてポツダム宣言受諾が正式決定し、中立国を通じて連合国へ正式に申し入れ「戦争終結の詔書」が発布されます。
このときの大御歌
「国柄をただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」
この後、昭和天皇は今生の別れを意識して皇太后にお会いになりました。
参考文献
「昭和天皇論」小林よしのり著
「かえるうぶすな」南出喜久治著
「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀編
添付画像
「白雪」号にまたがる昭和天皇(PD)
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【終戦秘史】 13 昭和天皇 聖断 (8月14日)
http://www.youtube.com/watch?v=-nx8hcratQI