タイも近代化により独立を保った


 タイは白人の植民地時代に東南アジアで唯一独立を保った国です。
 
 侵略されたアジア諸国
1819 シンガポール(イギリス)
1826〜86 ビルマ(イギリス)
1862〜84 ベトナム(フランス)
1863 カンボジア(フランス)
1898 フィリッピンアメリカ)
1909 マレー(イギリス)

 タイは西にビルマが隣接しており、東はラオスカンボジアベトナムがあります。ビルマが英国の支配下にはいると英国はタイの王室独占貿易を解体せよと迫ります。1826年にバーネイ条約を結ぶことになります。そして今度は治外法権の了承やすべての港での交易権、バンコクでの居住権、船幅税の廃止、3%関税の導入など不平等条約を結ばされることになります。1855年バウリング条約といいます。日本が欧米諸国と結んだ不平等条約とほぼ同時期であり、タイも同様の圧迫をうけたわけです。条約を結んでおいて後で一気に攻め込むのは白人の侵略の常套手段です。このときに王室の収入不足をコメの輸出による税収でまかなうことが行われました。白人のアジア植民地支配は特定の商品作物栽培を奨励したためコメが不足したのです。タイはこの頃から水田の拡大をはじめます。これが現在までタイの代表的な輸出産品となった謂れです。

 タイは西から英国による経済支配を受けますが、東からはフランスの領土圧迫を受けます。1867年にタイ仏条約が結ばれカンボジアの保護権を失います。ラオスでもフランスと衝突し、メコン河でも対立します。1893年パークナーム事件が勃発。フランスの軍艦がバンコクへ向い、チャオプラヤー河口を強行突破し、パークナーム(河口)で交戦し、港を封鎖し、タイを脅します。タイ側はイギリスの支援を期待しましたが、イギリスの反応はなく、フランス側の要求を全面的に受け入れ、賠償金を払い、国土を削り取られてしまいます。

 タイは西から英国、東からフランスの緩衝地帯になっていたため、両国が牽制しあい、タイも外交巧みに独立を保ったといわれていますが、チュラロンコーン王(ラーマ五世)がタイの近代化に力を入れたことが大きかったと思われます。王は国家財政改革を行い、議会と枢密院を設置するなど行政改革を行います。チャクリー改革と呼ばれます。中央集権化し、教育制度の近代化も行われます。この点も日本と似ています。日本は北からロシア、南から英国が触手を伸ばし両国がぶつかった地域であり、独立を保つために近代化を急ぎました。タイはそのほか外国人登用を始め鉄道の建設を行います。これも日本と似ています。
 このタイの近代化を助けた日本人では政尾虎吉博士がいます。1897年に駐タイ公使・稲垣満次郎の招聘でタイに渡り、新法制と法典編纂の事業に取り組みました。博士が1920年(大正10年)に亡くなられた時は、タイ政府は国葬の礼を持って遇しました。
 また、近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向で、イギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつが事実上の校長として招かれました。1904年から、3年間、安井は当時の貴族名門の子女約200人ほどを教えました。安井は帰国後は東京女子大学学長、東洋永和(現・東洋英和)の校長を務め、日本とタイ両国の女子教育に大きな足跡を残しました。

 そして近代化につとめたタイは第一次世界大戦を契機に不平等条約を解消することに成功します。王室を中心として国民が団結していたということでしょう。この点でも日本と似ています。



参考文献
 「物語 タイの歴史」柿崎一郎著
 「アジアに生きる大東亜戦争ASEANセンター編
参考サイト
 地球史探訪:日泰友好小史(上) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog063.html

添付画像
 タイの領土喪失18世紀から20世紀初頭(PD)

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